夢現奇譚 本編シリーズ長編

天昇

                                                                                         TopIndexBackNext

7.  


 碧麗(へきれい)の街は、街道を中心に発展している街だ。
 街の中央に宿や商店や屋台などが集まっているためか、その街に住む人々も中央地域近くに居を構えていることが多い。特に活気があるのは日が南中より少し西へと傾いた時間で、夕餉の材料を買いに出向いたり、森抜けの準備をする者達で溢れている。だが夕暮れ時にもなると、徐々に店は閉まり始め、日が沈むと同時にほぼ全ての店が閉店し、その門は固く閉ざされる。宿もまた辺りが夕闇に包まれる頃には、客を取らず、同じく門を固く閉じる。
 愚者の森が近いからだ。
 たとえ街道や、街の至るところに『紅麗』の灯があっても、日が暮れたら人々は用心のため、あまり出歩くことはない。
 西に陽が落ちてから果たして何刻が経ったのか。
 街道から少し離れた場所にあるこの一軒の宿だけは、未だに門を閉じる気配がない。
 とても大きな宿だった。
 本邸の他に離れと庭があり『紅麗』の灯りが、その道を明るくと照らしている。
 宿の前では門の開閉と警護のための門番が立っていた。屈強な男だった。だが門番は内心どうしても落ち着かない。今までこんな時間まで門を開けたことがなかったからだ。
 それに、門番の前には今日の客が、待ち人を今かと待ち続けている。
 上客だった。
 幾度か遠くから顔を見たことがあったが、こんなに近くでしかも長い時間、その姿を見ることになるとは、夢にも思わなかった。
 そして労いの言葉を掛けられるとは思ってもみなかった。
「このような時間まで、門を開けさせてしまうことになるなんて、申し訳ない」
 高く結われ背に落ちた艶やかな漆黒の髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。
 なめらかに唄い流れるかのようなその声に聞き入ってしまい、門番は慌てて返事をする。何を言ったのか全く自分で思い返せないくらい、門番は動揺していた。
 上客の憂うその表情と視線は、街道に向けられている。
 無理もなかった。
 上客と共に来たもうひとりの上客が、陽が落ち切ってもまだ戻って来ない。
 何度か手配や準備のために、宿の中に入って行ったもの、やはりここへ戻って待ち続けている。
 門番はその憂愁の顔をどうにかしたくて、無礼と思いながらも、ぐっと拳に力を入れて話かける。 「さ、咲蘭(さくらん)様。む、紫雨様は前大司徒だった御方。魔妖など相手になりますまい」
 きっと、大丈夫ですよ。
 門番の言葉に、上客が微笑んだ。
「ありがとうございます。気を遣わせてしまいましたね」
 絶句という言葉はこういう時に使うのだと、門番は思った。
 初めは見た目の印象から噂通りの、慈悲もなく温和さも感じられない、氷のような冷たい美貌の人だと思った。この国にはあまり見ない、漆黒の髪と瞳の色が余計にそう思わせたのかもしれなかった。
 だが今はどうだろう。
 『氷の美貌の人』以外の印象が一掃された。
 譬えるのなら熱い氷だ。
 繊細で冷たく整った容姿の中に、情に熱い華やかさのようなものが彼には存在した。そして笑むことによってまるで大輪の華が咲いたような、艶やかさと儚さが顕れる。
 その笑んでいたが表情が、突如鋭さを帯びた。
 上客の視線が再び、街道の方を向く。
 数人の駆ける足音が、こちらへ向かってきているようだった。
 その姿を、薄闇と灯りが作る濃影の向こうに見つけた時、上客が声を上げた。
「こちらです。紫雨」
 現れたもうひとりの上客が門をくぐる。
 そして続くのは三人の少年達だった。
 その中のひとりの少年に門番は目を見張る。
 少年が、ぐったりとした少女を抱き抱えていたからだ。
「……奥の離れを。人払いの下知は済んでいます」
「相も変わらず、察しの良いことだ」
 行くぞ、ともうひとりの上客が、少年達に声を掛け、先導する。
 上客……咲蘭は門番に軽くお辞儀をして、その後を追いかけ、やがて離れへと続く道の向こうへと消えて行った。
 門番はしばらくその方角を眺めていたが、非日常の巡り合いは終わったのだとばかりに、門を閉める準備に取り掛かる。
 今宵は同僚と一杯やりたいものだ。
 肴はある。
 しかもそれは極上だ。
 門番は楽しみに笑みを浮かべて、ゆっくりとその門を閉じた。








 離れは一層の、大きくて広い平屋造りの建物だった。
 本宿からは少し歩かないといけないが、この離れが元々は商談や、来賓のために使われているものというだけあり、部屋数も多く、また散策を楽しめる庭が広く整えてあった。
 竜紅人は一室に敷かれてある寝具に少女を寝かせる。
 あの時、起き上がってしまったことが影響してか、少女は再び意識を失っている。しばらくは目覚めることはないことを、竜紅人は何となく理解していた。
(……あれは、誰だ)
 知っていたはずなのに、どうしても思い出すことが出来ない。
 思い出せないのに、自分は少女を知っていて、少女もまた自分を知っている。
 その噛みわない歯車が、何だか妙に気持ちが悪い。
 竜紅人はその部屋を後にした。
 離れの部屋は外廊下と障子戸で、一部屋ずつ仕切るような造りになっている。障子戸は意外にも厚みがあって、普通に話をしているくらいの音であれば、外廊下やそれを挟んだ隣室に聞こえてくることはない。
 だが療と負けず劣らず聴力の発達した竜紅人には、少し離れた部屋で話をしている声がよく聞こえていた。
 竜紅人は見事な装飾が施されている、欄間の部屋の障子戸を開けた。
 部屋の中が急に静かになる。
 大広間だった。
 中央に大き目の机があり、食べやすい握飯と香漬、そして香茶が用意されていた。
 本来のこういった場所での食事は、宿の者が部屋を行き来し、品書き通りにひとつずつ用意される。だが人払いを命じたと言っていた以上、そのような食事は無理がある。
 多分食べやすいものを用意させたのだと、竜紅人は思った。
 だが手を伸ばす気にはなれなかった。
 ふと見れば空いた皿もあれば、握飯をひとつ残した皿もある。
 香彩や療、紫雨は『力』を行使していたから、空腹にもなるだろう。咲蘭は元々食が細い。
 竜紅人は小さく溜息を付くと無言で座る。
 目の前にある、自分用の夕餉。
 やはりどうしても手が出せない。
「……食わんのか?」
 正面に座る紫雨の言葉に、竜紅人は黙って頷く。
 何か物を言おうとした竜紅人を遮ったのは、療と香彩だ。
「ちょっ……竜ちゃんどうしちゃったの!?」
「本当だよ、竜紅人が食べないなんて。大丈夫なの?」
 普段は何も感じないのに、今ばかりはふたりの少し高い声に辟易する。
 その空気を察したのか、それとも表情に出てしまっていたのか、紫雨が少しは静かにしろとふたりを黙らせる。
 それを見た咲蘭が小さく溜息をついた。
「竜紅人。せめて一切れの香漬を。香茶は心を和ませます。一口飲んで、少し落ち着きましょう」
 そう言って笑む咲蘭に、竜紅人はああと返事を返した。
 言われるがままに香漬をかみ砕き、香茶を啜る。
 程よい香茶の温かさが何とも心地良く、喉を通り、腹を温める。
 ほぅ、と竜紅人は息をつく。
 少し気持ちが落ち着いても、やはり握飯を手に取る気にはなれなかった。
「……すまない」
 竜紅人が握飯の乗った皿を押し返す動作をする。
 察した咲蘭が皿を竜紅人の目の届かない位置へと下げた。
 紫雨の言い付けを守っているのか、療と香彩が無言のまま、固唾を飲んでその様子を見ている。そんな顔をするなと言ってやりたい竜紅人だったが、今はそんな心の余裕がなかった。
 正面に座る紫雨は何も言わないが、確かに待っているのだ。
 竜紅人が話す、その時を。
 視線を真っ向から受け止める。
「……正直言って、話せることがない」
 竜紅人の言葉に紫雨が目を見張る。
「それはどういう意味だ?」
「そのまま、その通りだ。……俺には葵が誰なのか、分からない。知っていると理解しているはずなのに、それが何なのか分からない」
 だから話せることがない。
「葵は……確かにあの時、俺の名前を呼んだ。呼ばれた瞬間分かったんだ。『葵』という名前と、旅の間、何度か呼ばれた気がしていたその声が」
 この声だった。
 竜紅人は香彩の方を見る。
 香彩も驚きの表情をしていたが、竜紅人に頷くと、視線を紫雨へと変えた。
 気付けば咲蘭も療も、紫雨を見ていた。
 竜紅人も再び、紫雨を見る。
 こういう時の今後を決める決定権は、紫雨にあることを全員が理解していた。
「……ここで情報のない者同士、雁首揃えていても仕方あるまい。今日は休んで、早朝城へ向けて出立する。奴に問いただす案件もあることだしな」
 紫雨の言葉に全員が返事を返す中、竜紅人だけが言承けもなく、じっとしていた。
 竜紅人は特に拒否したいわけではなかった。
 少女がいる以上、一度城に戻った方がいいに決まっていた。
 だが自分の中のがらんどうな心と記憶が、自分をここに留めたがる。
「……わかったな。竜紅人」
 その理由をと、問い正されても説明ができないと判断した竜紅人は、自分の中に沸いた疑問を押し込める。
「ああ……分かった」
 竜紅人の返答を聞いた紫雨は、ここにはもう用がないとばかりに無言で立ち上がった。
「……香彩」
 今まで話していた声色より、少し低めの声色で呼ばれた香彩は即座に応答する。
 紫雨は、ついてこいとばかりに香彩に向けて顎をしゃくった。
 香彩は立ち上がり、残された三人に明るくおやすみと言って手を振ると、紫雨に続いてこの部屋を出て行った。


 誰とも言わず、多分この場にいた全員が大きく息をついたのが分かった。
 顔を見合わせた咲蘭と療が、くすくすと笑う。
 その場にいるだけで、見る者に強く迫るかのような威圧感を感じることもあり、紫雨のいなくなった部屋はそれだけで空気が違う。
 特に緊張したつもりなどなかったはずなのに、肩に力を入れていた自分が可笑しくて、竜紅人も笑った。
 それを見ていた療が、ほっとしたように口を開いた。
「しかし……香彩もすっごいよね。ほぼ四六時中、一緒なのによく平気だなっていつも思うんだ」
「あいつらは……似てないようで、似てるからな」
「それに……また違うんでしょうね。私達と一緒だと」
 全く持ってその通りだ。
 たとえ纏っている雰囲気が変わらないとしても、お互いの前でしか見せられないものもあるのだろう。
 竜紅人は残っていた香茶を飲み干す。どうやら喉も乾いていたらしかった。
「おかわりはいかがしますか? 療、あなたは?」
 自分の手元に置いていたのだろう、茶器の一式を机の上に置き、咲蘭が問う。療は喜んでお願いしますと、湯呑を渡した。
 竜紅人もそっと湯呑を咲蘭に渡す。
「香茶もお願いしたいんだが……もうひとつ頼まれてほしい。咲蘭」
「おや? 珍しいですね。あなたが私に頼み事など」
 咲蘭が湯呑を渡しながら言う。
 仕事柄、咲蘭とは接点はある。
 咲蘭は大僕参謀官という任に就き、城主の補佐を行うと同時に、その身辺警護も行っている。大僕参謀官の別名を大司馬将軍といい、軍事、警備を取り仕切る大司馬の統括であり、宿衛兵である療の上司だ。
 大僕は、六つの大司官の統括でもある大宰と仕事をすることも多い。大宰には弟がいて、竜紅人にとって直属の上司である大司冠の任に就いている。
 会話する機会はたくさんあった。
 竜紅人は城主に預けられている身でもある為、仕事以外でも城主の横にいる咲蘭と話すことも多かった。
 だが、頼み事したりされたりする程の間柄ではない。
 それでも。
「……一晩、葵のこと、頼めるか?」
 咲蘭が目を丸くしたかと思うと、くすりと笑った。
「おや? 心配で気になるあまり、同室にするのかと思っていましたよ」
 受け取ったばかりの湯呑を、そのまま落としそうになって慌てる竜紅人を、療が驚いて見ている。
 げんなりとした顔をして、竜紅人は溜息をついた。
「あのなぁ……」
「流石にあなたとあの少女が同室では、色々と問題がありますね。面白がる統括もいることですし」
 構いませんよ、と咲蘭が言った。
「ひとりにしておくのが、心配なんでしょう? 彼女が目醒めたら真っ先にお知らせします。竜紅人、まずは何も考えずゆっくりとお休みなさい」
 気遣うような優しい表情で笑む咲蘭に、竜紅人が息を呑んだ。
 その笑みに、腕に添えられた手に。
「……すまない」
 心の中の張り詰めていた糸が緩まされたような感覚に、目頭が熱くなる。
 竜紅人はそれを、俯くことで遣り過ごした。
「療? 竜紅人を連れて行きなさい」
 咲蘭の言葉に、療が短く返事をした。
 竜紅人を支えるように体に手を添え、立ち上がらせる。
 頼みましたよ、と声を掛ける咲蘭に、療はこくりと頷いて見せた。 
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