夢現奇譚 本編シリーズ長編

天昇

                                                                                         TopIndexBackNext

8.
 
 既に夜の帳が落ちている庭には、沢山の『紅麗』の明かりが灯されていた。紅と橙の間のような色の灯が、散策用の小道の脇に、一定の間隔で置かれている。離れの灯りが届かないこの場所は、まるでこの『紅麗』の暖かい色が宵闇の中に、ぼぉっと浮かんでいるようにも見えた。
 しばらく歩くと庭の中にしては、やや大きめな池があった。渡橋がかけられていて、池上を散策出来るように作られている。池には沢山の『紅麗灯』という、細くしなやかな竹の棒を丸く組み、薄い紙を貼り巡らせて、その中に『紅麗』を入れて燃やした物が浮いていた。水面にぼんやりと移ろいながら映るその灯は、何とも幻想的だ。
 紫雨からの合図を受け、彼の後をついてきた香彩は、渡橋の上で足を止めて、しばしこの幻想的ともいえる灯火に魅入り、景色を眺めていた。
 なんて、綺麗なんだろう。
 そう思った瞬間、心の中で少し余裕が出来ていることに気付いた。
 景色を楽しんでいる余裕などなかったこと、実は気が張り詰めていたことを今更になって気付いたことがおかしく感じて、香彩はくすりと笑う。
 先に歩いていた紫雨の呼ぶ声に、短く香彩が答えた。
 渡橋の渡った先の池のほとりに、休憩用の長椅子が置かれていて、彼はそこに腰かけていた。
 長椅子の左側の空いている場所を、紫雨の右手が急かすように、とんとんと叩く。
 無言でなおかつ無表情で、そういうことをするのはやめてほしい。
 香彩は心の中で大きな溜息を付いた。
(……あ、でも無表情、じゃないか)
 顔に表すことはないが、彼の目が雄弁に語っている。
 何となく紫雨の横に座る気分ではなかった香彩が、彼の前に立った。
「……座らないのか?」  
 紫雨が、にっと笑いながら言う。
「俺の横が気に喰わん、か? 誰なら喜んで座るんだろうなぁお前は」
 質の悪い笑みで、彼はくつくつと笑う。
 紫雨が言葉で遊び始めたら性質が悪いことを、香彩はよく知っていた。彼の『遊び』に毎回いつも引っかかり、ちゃんと反応を返すのは竜紅人くらいなものだ。
 香彩はにっこりと笑みを顔面に張り付かせて返した。
「紫雨……森の中からずっと怒ってるでしょ?」
 しかもご丁寧に結界まで張って、何の話?
 香彩の言葉に、紫雨は笑みを更に深くする。
 渡橋を渡り、一歩足を踏み出したその時に、空間の違和感を感じていた。馴染みのある、自分をよく護ってくれる『力』の鱗片がそこにはあった。
 香彩が紫雨と視線を合わせる。
 先程まで瞳の奥に怒りを隠していた紫雨のその目は、今はとても楽し気に輝いているようにも見えた。
「なぁに、久々の逢瀬だ。耳聡い者達に聞かれるのも無粋、だろう?」
「あーはいはい。あのふたりには聞かれたくない話なんですね?」
 紫雨の言葉に香彩は、引き攣った笑顔を張り付かせたまま、ふたりがいるだろう部屋の方を見る。
 竜紅人と療のことだ。
 香彩と紫雨のいるこの場所は、彼らの部屋から通常ならば聞こえない。だが彼らの聴覚は人のそれを遥かに凌駕する。香彩は、竜紅人と療の話している言葉は聞こえないが、彼らは部屋の中にいて、その聴力で聞き分けを行うことが出来た。
 紫雨が楽しそうに息を付く気配に、香彩は再び彼を見た。
「……情報をくれてやる必要もない」
「……」
「それに情報次第では、奴が出てくる可能性もある」  
 げんなりとした表情を浮かべる香彩に対して、紫雨はやはりどこか楽しそうに言葉を続ける。
「城を出たのは、いつだ?」
「えっと……昨日の早朝」
 一瞬言葉に詰まった香彩が、思い出しながらそう告げた。
 旅に出てから一日と少し。
 その間に色々な事があったからか、随分長い間旅をしていたような気になっていたが、ほんの二日前までは特に何事もなく城にいたのだ。
(……まるで、僕たちが城から出るのを待っていたみたいだ)
 何がそうなのかは分からないが、香彩はなんとなくそう思った。
「目的は……先程、療が言っていたことに間違いはないのか?」
 紫雨の瞳の奥に再び見え始める怒りの色に、きょとんとした表情を、香彩は浮かべた。
「紫雨もしかして、今回のこと叶様から何も……」
「ご丁寧に、人が視察に出てから全て決まったことのようでな」
 快然とした笑みと口調で話す紫雨に、香彩はあらぬ方向を向いて溜息を付いた。
 紫雨が視察の為に城を出たのは、四日前だ。
 その翌日に霊鷲山の金毘羅が叶を請謁している。
 叶からの勅命を受け城を出たのがその更に翌日……つまり昨日の早朝だ。
 たとえ紫雨が外出していても、連絡手段は存在する。しかも主君といえども紫雨にとっては幼馴染であり、とても気安い関係だ。
 それが敢えて連絡をしていなかったという時点で、叶が『魔妖関連で香彩を城から出す』ことを隠して置きたかったに違いなかった。
 どすっ、という音が聞こえて、素知らぬ振りをしていた香彩が、音のした方へと向く。
 紫雨が力任せに長椅子を、拳で打ち付けていた。
「……あやつめ」
 城に戻ったら真っ先に問いただしてやると息巻く紫雨に、香彩は苦笑する。
 たった一日と少しだ。
 目的はどうあれ、一日くらいならば何度か仕事関連で城を出たことがある。だがそれは『紫雨』という名前が持つ、いわばお膳立てされ護られた道であると言う事に香彩は気付いていた。
 今回の旅のように、『何の用意もなく』城を出るのは香彩にとっては初めての経験だった。



 何故そこまで護られるのか。
 何故そこまで護ろうとするのか。



 幾度か疑問に思ったが、これは『聞いてはいけないことなのだ』と、香彩は直感で理解していた。
「……僕か竜紅人が、連絡すればよかったんだよね」
 香彩の言葉に、紫雨は呆れたように嘆息する。
「ちょっと色々あって……忘れてて」
「まぁ、忘れていて正解だな。どうせ潰される。式の無駄遣いだ」
 誰に、とは紫雨は言わなかったが、確かにその可能性は高かった。
 香彩が連絡を忘れていても、竜紅人がいる。だが竜紅人が動いていないということは、そういうことだ。



 隠そうとしているものを、暴く時点で彼が出てくる。
 自分の見定めた道筋を揺るがし、望む結果を変えるものを、彼は容赦はしないだろう。



「……で? 色々とは?」
 少し物思いに耽ていた香彩は、少し深みのある口調で言う紫雨の声に、意識が引き戻される。
「竜紅人のこと……なんだけど」
 話していいものかと悩んだが、自分の感じたものを共有し、意見がほしいと切実に思ったのも、事実だった。
「昨日ね、竜紅人を『視』たんだ……」
 意外な名前と、力の行使に紫雨が目を見張る。
 香彩は、昨夜感じた竜紅人の様子を、紫雨に話した。



 大きな光の力の奔流。
 それは香彩や紫雨にとって、術力の源となるものだ。
 引きずり込まれ取り込まれそうなくらいの、その毅さ。
 その中に見える、大きく広げた力強く羽ばたく竜翼。


「……初めて葵を見た時、違うものに見えたんだ」
 竜紅人がその腕に抱いていたものが。
「何かね……竜紅人の中にあった、光の力の奔流の大きな玉に見えたんだ」


 それは一瞬の表情の変化、だった。
 香彩の話を聞いていた紫雨の顔が、強張ったかのように見えた。
 だが本当に刹那の出来事で。
 すぐに表情を隠した紫雨を、香彩は問うことが出来なかった。
(……この感じ、この前と同じだ)
 夢から目覚めた時の、『聞いてはいけない』という直感。
 それとまさに同じものを香彩は感じていた。


「……今はまだ隠れているけど、葵の中にはとても毅い光の力を感じる」
 ここまで話して香彩は喋ることを止めた。
 ふたりの間に沈黙が降りる。
 それぞれが自分の中で、様々なことを考え、巡らせる。
 柔らかい風が香彩と紫雨の間を、吹き抜けた。
 紅麗灯の暖かい色の灯が、大きく風に揺れて、立っている香彩の影もまた、ゆらりと揺れる。
 まるで心の中のように。
「……覚醒、か」
 沈黙を破ったのは紫雨だった。
 香彩は無言でこくりと頷く。
「多分……葵は、竜紅人の……」  





 香彩が話そうとしたその時だった。
 結界にわずかな衝撃が走り、紫雨が思わず立ち上がる。
 破られてはいない。
 だが。
 聞こえてくるのは、とても甲高い獣の咆哮。
「なっ……」


 匂い立つように溢れてくる、その独特の気配。
 その黒い影が、香彩の前を遮った。 

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