4.君が消える海へ
数日後……。 人体保存装置実験の説明会が行われた。 実験は二日後に行われる。特殊な注射を打たれ、半年間低温睡眠に入る。その間に研究者が様々なデータ取るというものだった。 説明会の終了後、神璃は狼と話がしたいと優也に談判した。 玉砕覚悟だったが、気味が悪いほどあっさりと許可が降りた。優也は例の一件以来思い詰めているようだった。天使にも、あの狼にも会っていないのだという。 「樹把。お前も行かないか?」 「おう……と言いたいところなんだが、上司様からお使いを頼まれてさ。隣街の架凛分校まで資料を届けるように、だってよ」 「今から? 帰る頃には夕方じゃないか。気を付けろよ」 「お前こそな。いくら人間の知性理性を持ってる狼でも、気を付けるに越したことはない。危なくなったら逃げろよ」 じゃあな、と樹把は神璃に背を向けてひらひらと手を振った。 廊下を歩く彼の姿は、廊下に差し込む日差しに溶け込むようにして消えていく。 樹把、と何故か呼びかけないといけないような気がした。 「お待たせ、神璃君」 はっ、と我に返る。 セラフィーがにこりと神璃に微笑みかけていた。 そういえば、天使を見せる約束をしていたのだ。実験が始まってしまえば、半年間は眠ることになる。半年後に天使がこの場所にいる保証も、神璃が天使の担当だという保証もないのだ。許可は優也との談判と同時にもぎ取った。 「あ、うん。じゃあ、行こうか」 人体保存実験装置の説明会場は、神璃の持ち場の研究室と中庭を挟んで真向かいにあった。 「へぇ? ここ意外に広いんだね?」 「うん。外からはそうは思わないんだけどね」 中庭を越えて、真っ直ぐに続く廊下を歩く。 何かの薬品の臭いが少し、鼻についた。 「天使に会う前に、狼と会わなきゃいけないから、すこし外で待っててね」 「狼って前に話してくれた例の?」 「うん、そう。どういうやつなのかよくわからないけれど」 何故か、狼のあの瞳を見ると懐かしい気持ちがして仕方ないのだ。 自分の研究室の前に立ち、神璃は大きく深呼吸をした。 スライド式のドアが開かれる。 デスクの上に腰をかけて、片膝を抱いて。 狼が、いた。 突き刺すような視線が神璃に向けられる。神璃は負けじと視線を返した。 信じたかったのだ。 ”ブレイズ・マザー”が成功したあの日、狼は自分に向かって椅子を投げつけようとした。だが神璃と目が合った瞬間、狼は確かに椅子を降ろしたのだ。 何故かは分からなかったが、何かあるのだと、神璃は思った。 その何かを、信じたかったのだ。 狼の睨むような視線が、少しずつゆるんでいく。 何かに驚いているかのような、その表情。 (……何でだろう?) 何故この狼は、自分には攻撃をしてこないのだろう。 神璃は、にっこりと狼に微笑みかけた。 「初めまして。俺、佐々波神璃。君は?」 「……名前など、無い」 狼が言葉を返す。そのことに神璃は驚きと嬉しさがこみ上げてくる。 「名前がないと、不便だな」 神璃はしばらく考えてから、うんうんと頷いた。 「そうだ。 ”皇司”ってどう?」 「コウ……ジ……?」 「 皇 に司るって書くんだ。鬼頭っていって、鬼神に変わるための冠物を司るって意味があって、転じて”王者”っていう意味がある。どう? 意外と好きな名前なんだけど」 狼は茫然として神璃を見ていたが、やがてくすりと笑った。 「……変わった奴だな、お前は」 「よく言われる」 神璃も笑う。 ああ、そうだと神璃は、部屋の外で待っているセラフィーを迎えに行った。 セラフィーは狼のその姿に、すっかり怯えてしまっていた。 そんなセラフィーに、狼が笑いかける。 こんなこともできるんだと、驚きを隠せなかった神璃だったが、効果あってセラフィーの怯えは少し消えたようで、セラフィーも狼に笑みを返した。 「俺達、天使に会いに来たんだ。しばらくの間、ここには来れないからさ」 「しばらく……?」 「うん、半年間、かな? 実験でね、少しばかり眠ることになったんだ」 手際よく網膜識別式のドアロックに照合する。 開かれた扉の向こうに現れたのは、まさに天使としか言い様のない生命体。 わぁ……、と真っ先に部屋に入ったセラフィーが、ため息混じりの感嘆の声を漏らした。 「そうだ! この部屋自体はロックしなきゃいけないんだけど、ここだけ開けておいてあげるよ。だから天使の話相手になってあげてよ」 狼は天使を見上げたまま虚ろに、ああ、と答えた。
重く疲れた足を引きずるように動かして、家に着いたのは午後九時を回った頃だった。扉の鍵を開けて返ってくることのない、ただいまの挨拶をして中へと上がる。両親は共働きで、今までに喧嘩のなかったことが不思議なくらい、自分の仕事に打ち込んでいる。 近くで買ってきた夕食の弁当を温めている間、神璃は毎日のように来るFAXを手に取った。両親の「今日は遅くなる」や「今日は帰れそうにない」といった連絡事項を伝えたものだが、イラストや何やらでユニークに書いてくれるものだから、紙がいくらあっても足りない。神璃自身、両親に文句をいいながらも実は結構楽しみにしていたりするのだ。 例の人体保存装置の件について話した時、両親は特に何も言わず、ただ自分が信じられると思うことは最後までやってみなさいと諭されたが、その一言が嬉しいと思った。 母からのFAXには頑張りなさいと。 父からのFAXには装置ってこんなのかぁと卵のような絵が描かれてあり、思わず神璃は吹き出してしまいそうになる。 聡明な母と愉快な父に今日のことを話したい。例の狼を今日は話をして、写真まで撮った。以前に撮っておいた優也と架稜良の写真と合わせてみようか。 チン、と電子レンジが温め終了を告げる。 少し温め過ぎた弁当を机に置き、ふと電話が鳴っていることに気付く。 何かのコードに足を引っかけて転びそうになりながらも、受話器を手に取った。 「はい、佐々波です」 『夜分恐れ入ります。BM生物科学研究所の佐々木と申しますが……』 「優也さん?」 『神璃か?』 優也の声が突然、堅いものになる。 『神璃……今から話すことを落ち着いて聞いてくれ』 「あ、あの、また狼が何か……?」 『いや、違うんだ。あのな……――』
急に優也の声が聞こえなくなった気がした。 目の前に視界が薄暗い。 身体の機能が全て停止してしまったように感じた。 感情すら、動かない。 『……だったらしい。場所は例の名所のコーナーで、対向車が……を越えて……』 言葉が、聞こえない。 『バイクに正面衝突して……はガードレールを超えて投げ出されたらしい』 分からない、何を言っているのか。 『……璃? ――神璃!?』 今すぐここへ来て冗談だと言って笑ってくれ。
――内に溜めていたら病気になるぞ。海へ行こう。
そんな性格の悪い冗談を言う奴じゃなかっただろう。 お願いだから、心が参ってしまう前に、どうか笑ってくれ。 『神璃っ! しっかりしろ!!』
――真矢樹把が先程、事故で亡くなった。
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