5.僕が消える海へ
海が、見たくなった。 きっと狂ってしまいたいのにそれが出来ないのは、その海が今でもまだ存在していること知ってしまったからだ。
樹把と架稜良と一緒に駆け回った海。 君が消えた、海。
樹把はあの時から、廊下でいつものようにわかれた日から、帰らぬ人となった。 あのまま、普通に日常生活を送れていたのなら、自分はきっと泣いただろう。生活のふとした瞬間に彼がもういないのだと気付かされて、やりきれない気分になる。悲しくなる、泣きたくなる。 ――彼はもう、存在しない。 それのどんなに悲しいことか。親よりも長く一緒にいた友人が突然消えてしまった。死んだ人間はもう自分の側には戻らない。帰してくれ、返してくれと懇願しても、この手に戻ることはない。
涙が出なかった。 セラフィーが死んだ時には、視界が歪む程溢れていたのに。 そして、自分が知っている人達は、もうこの世界のどこにも存在しない。 架稜良も、とうの昔に死んでしまっただろう。優也も研究員の人も学校のみんなも、両親も。 自分と同じ時代、同じ時を駆けてきた人がもう、ここにはいない。 最後に覚えているのは、人体保存装置に入る前にした注射の痛みと、セラフィーとの約束。 ――実験が終わったら待ってて。話したいことがあるの。
目覚めると辺りは一変していた。 地下深くにあったはずの実験室は、何故か地上になっていて、上の階が骨組みだけを残して跡形もなく消えていた。装置を出て、只事ではないことを悟った。 同じように並んでいる装置の中に、セラフィーの姿を見つけて開ける。 彼女は綺麗な姿のまま死んでいた。 生命維持に関する物を送っていたチューブを焼き切られて。 他の者を見れば、装置ごと消えた者、既に目覚めてここを去った者、未だに眠っている者など様々だ。
海が、見たくなった。 目の前に広がるのは、緑の欠片もない、荒れ地ばかりが広がる大地。 自分の生きていた時代から、百年……。 あの時代でやりたいことがたくさんあった。読みたい本もあった。両親とゆっくり話もしたかった。置いてきていいものなんて、何もなかったのに。 皆は時間に殺されて、自分は時間に置いていかれた。 「あっ……!」 一時期どこかへ行きたい、自分じゃない自分になりたい、新しくやり直したい、そう願ったことがあった。だがそれは自分という存在が安全なところにいるから言えたことなのだと気付いた。戻りたいと願っても、過ぎ去った年月はどうにもならない。
「ああっ……!」 嘆きの声が自分の意思に関係なく出てくる。 このまま嗤って狂ってしまえば、どんなに楽だろう。 ――よう! 特待生。 ――よう! 神璃。 ――神璃お兄ちゃん。 ――おはよう、神璃くん。 幻聴か、幻覚か。 みんなの声が聞こえて、姿が見えて、やがて消えていく。 見たくなくて聞きたくなくて、両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じた。 「嫌、だ……嫌だっっ!!」 指が食い込むように頭を抱え、その言葉を繰り返す。 無くしてしまったものを、無くなってしまったものを求めても、どうしようもないのに。
狂わせてくれない。 皆が自分をここへ止まらせようとする。 ――俺は、どこへ行けばいい?
海が、見たくなった。 あいつが消えた、海へ。
見渡せば緑の欠片もない地平線が、大地を永遠のもののようにしているかのようだ。 山はどこへ行ったのだろう。 川はどうしたのだろう。海は……。 冷水に触れたかのように彼は、はっとする。 はじめて知ったのだ。 何もかも失くして初めて……。 海との距離が、こんなに近かったことを。
ああ、ここが自分の果てる場所だと、時が告げている。
海が……見たく、なった。
<終>
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