夢現奇譚シリーズ短編

 湯けむり事情
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「あ……っ」
「……え?」
「……」  
 三人は何かに気付いたかのようにそう一言ずつ声を発した後、無言のまま、入口で立ち尽くした。
 全員同じ入口から入ろうとしていることに、特に問題はないはずだった。
 だがここに来て、その姿を見て、感じるこの危機感をどう説明したら分かって貰えるのか。
 大変なことは何もないはずなのに、何だか駄目なのだ。
 (かのと)はちらりと右隣にいた紫雨(むらさめ)を一瞥する。
 彼もどうやら顔には出てないが、同志のようだ。
 そして左隣にいた(りょう)にも視線を送る。
 療も叶と視線を合わせ、やれやれとばかりに首を横に振って溜息をついた。
(やはり……療も同じことを思ったようですね)
 自分たちの後ろでは、この雰囲気に気付いていない連れのあと三人が楽しそうに他愛もない話しをしていた。
竜紅人(りゅこうと)ならば、果たして気付くだろうか)
 そう、問題は後ろの三人の中の二人だった。
 叶は竜紅人に気付けとばかりに視線を送りながら、ちらりと二人の姿を見る。
 ひとりは名を香彩(かさい)という。春の宵の春花のような藤紫の髪をしていた。いつも高く結っている髪は下ろされていて、用意されていたのだろう、紺の生地に薄桃の花が描かれた浴衣の背に胸に、さらりと落ちていた。紅の帯は左腰骨辺りで無防備に結ばれている。帯の巻き方を敢えてそうしているのか、うまく長さ調節が出来なかったのか、結んで落ちている部分の片方がとても長く、腰の曲線に沿って伸びていた。
 浴衣から見える手や足首そして身体全体の線を見ても、かなりの華奢だということが分かる。大人でなければ子供でもない伸びやかで危なげな肢体、透明感のある白い肌と瑞々しい藤色の髪、大きくぱっちりと開かれた森色の瞳。笑うその姿はとても可愛らしいが、時々何かを思い憂う表情に、目を奪われる者もいるだろう。
 もうひとりは宵闇のような漆黒の髪をしていた。その猫を思わせるなめらかな体くばりと、独特の流れるような動きが、体の中で機能しているはずの関節や筋肉といった、体の器官の存在を忘れさせてしまう。ただ立ち上がるだけ、歩くだけで、周囲の人間に催眠効果のある舞踏を見ているような酩酊感を与えるのは、並みならぬ美貌の持ち主だからだろうか。
 紺の生地に濃桃の花が描かれた浴衣に下ろされた、身体の動きに合わせてさらりと揺れる漆黒の艶やかな髪に、叶はいつの間にか誘われるかのようにそれを見つめていた。
(……咲蘭(さくらん)
 不意に視線が合う。
 咲蘭はにこりと叶に向かって笑んだ。
 厳しく氷のように冷たい美貌の内に、情に熱い華やかさのようなものが存在し、笑むことによってまるで大輪の華が咲いたような、艶やかさと儚さが顕れる。
 その微笑は毒だ、と叶は心内で思った。
 今ここでどうすることも出来ないというのに、向けられるその笑みは体にとって毒でしかないのだ。
 叶も笑みで返した後、咲蘭はその視線を香彩に向けている。
 ふたりで楽しそうに話をする中に、竜紅人が混ざる。
「竜紅人、僕の髪の毛洗ってくれる?」
「はぁ!? んなもん、おっさんに頼めおっさんに」
「私が洗いましょうか? 香彩の髪は細いですから、雑な竜紅人が洗ったら絡まってしまうかもしれませんし」
「雑って何だよ。昔は俺が洗ってたんだぞ。つーか自分で洗えよ自分で!」
「確かに竜紅人、ちょっと痛いからお願いしようかな?」
「はぁ!?」
「ええ、喜んで。香油も持ってきているので一緒に使いましょう」
「わーい、ありがとうございます咲蘭様。竜紅人拗ねないでよ。背中流してあげるから」
「いらんわー!」
 ああ駄目だ、叶はそう思った。
 竜紅人は決して意識して自己防衛しているのではなく、素直にそう言ってるだけだと気付いて、叶は無言で紫雨を見やった。
 紫雨も何も言わず叶を見ている。
 そして大きく溜息をついたのは紫雨だった。
「……貸し切りをふたつ頼んでおいた。あのふたりを放り込めば問題ないだろう?」
 その言葉に、隣にいた療が詰めていた息を大きく吐き出して、よかったぁぁと胸をなでおろした。
「療は洒落にはならないですからね」
 叶の言葉に療はこくりと頷く。
 それは療の、力のある者や気に入った者の肉体を喰らいたいという『鬼』としての本能が関係している。裸体なんか見た日には、その本能がどうなるのか全く計り知れない。
「叶様は、大丈夫なんですか?」
 療が不安そうな声で聞いてくる。
 叶もまた『鬼』だ。
「……相手の心が追い付いていないのに、無理強いするわけにはいきませんしね」
「……?」
 療が首をかしげる。
「子供の前だぞ、叶」
 叶の発言に、ぴしゃりと紫雨が言い放つ。
 あははと空笑いをする叶に、紫雨が再び大きな溜息をついた。




  麗国の東側は温泉がたくさん湧くことで有名な地だ。
 一番近いところで城から歩いて半刻もしない場所にある。
 ここはいわゆる城ご用達の温泉場だった。



  桶の置く音が響き渡る。
 湯をかけ、思い思いに温泉に身を沈めた四人は、その気持ちよさに大きく息を吐く。
 身に染みるとはこのことだろうか。
 大小様々な大きさの岩を組み合わせたような浴槽は、男性四人で入っていても、裕に泳げるくらいの広さがあった。
 療が一番にばしゃばしゃと泳ぎ出し、それを追いかけるように竜紅人も泳ぎ出し、やめんかと言う紫雨も声も空しく温泉場に響く。
「あ、やべ」
 竜紅人の頭に巻いていた手拭いが、はらりと落ちる。
「わー竜ちゃんの結い上げ姿、久々に見た」
 普段は下の方で括るか、もしくは流している竜紅人だったが、温泉に髪がつかないように高めに結い、それを手拭いで巻いていたのだ。
「そりゃ、温泉だしな。おっさん達もそうだろう?」
「お前におっさんだと言われたくないな」
 黙って浸かっていた紫雨が、竜紅人を睨む。
 おおこわっと言いながら竜紅人は温泉から上がり、洗い場の方へ向かって行った。
 叶は始めは温泉に浸かってはいたが、今は足だけを湯に入れて座っていた。その下を療が楽しそうに泳いでいく。
「療、あんまり泳ぐとのぼせますよ」
 はーいと返事をしながら、療は泳ぎながら叶から離れていく。それを微笑まし気に見て、叶は視線を少し上へと上げた。
 仕切りがあった。
 この向こうに、もうひとつの貸し切り温泉がある。

『うわぁ〜広い〜。ねぇ、咲蘭様』
 大きい香彩の声が、こちら側の温泉にも響いてきた。
 その声に紫雨が反応して、視線を上げたがすぐに戻し、今度は目を瞑っている。
 皆と一緒に入るつもりだった香彩を説得するのは大変だった。
 だが療のことを引き合いに出し、咲蘭に何やら説得されてようやく納得した香彩は、竜紅人は一緒に駄目なのかと聞いてきた。竜紅人は、お前は俺を殺すつもりなのかと怒鳴っていたが、どうやら分かっていたようである。
 紫雨が温泉をふたつ貸し切りにしたのは、療のことだけではないのだ。
『うわぁ〜咲蘭様、うなじ綺麗ー』
 思わず滑りそうになって、叶は湯の中に戻り肩まですっぽりと入る。
 そんな叶の様子を見たからなのか、それとも別の理由があるのか、紫雨が咳払いをした。
『触ってもいい? ……わぁ、ありがとうございます。……すごい綺麗な肌、肩の線にかけて本当綺麗〜。うらやましいなー』
『……』
『え? 僕? ……腰? ちょ……くすぐったい、咲蘭様』
『……』
『咲蘭様の方が、細いじゃないですか? ほら』
『……』
 咲蘭の声が小さくてどうしても聞こえにくいことが、何だかとても惜しい気がしてしまうのは気のせいではないはずだ。
(……しかし、これは)
 叶はちらりと紫雨の方を見る。
 紫雨は相変わらず無言のまま、目を瞑って湯に浸かっている。
 香彩が何か言うたびに、その瞼や眉が反応するのを見逃す叶ではない。
『咲蘭様、すごく大きいですね。僕、全然大きく出来なくて』
 思わず湯が口に入ってしまって、叶が咳き込む。
 わーいと声を立てて、無言の叶と紫雨の前を、療が泳いでいく。
『空気の入れ方? わぁ本当だ。咲蘭様がすると大きくなる』
 なんだ手拭い風船のことかと、叶は小さく溜息をついた。
 聞いているとどうも心臓に悪い。
 叶はもう気にしないようにした。
 だが。
『ほら! 香彩。ちゃんと座って!』
 今度は咲蘭の声が響き渡る。
 その声に、再び意識はそちらを向いてしまう。
 再びばしゃばしゃと泳いできた療は、竜紅人に洗い場の方に引っ立てられて行ってしまった。
『あ! 石鹸、竜紅人だ』
『私のも叶が……』
 叶は洗い場の方に視線を移す。確かに桶の中の体を洗うための道具の中には、石鹸が入っていた。
(あれは……咲蘭の)
 いつも使っている石鹸。
 渡すと返って来ない気がして、叶は渡したくないと思ってしまった。
『竜紅人ぉー! 今、療洗ってるでしょ? 終わったら投げてー』
「ああ、分かった!」
 竜紅人が石鹸を仕切りの向こうに向かって投げる。
『ちょっ……竜紅人、どこ投げてるんだよ!』
 こつん、という響きのいい音が、仕切りの向こうで聞こえた。
『わっ……! 痛っ、いったぁ』
『香彩! だいじょ……っ』
 先程まで響いていた香彩と咲蘭の声が、急に静かになった。
 叶は浸かっていた湯から、身を起こそうとした。同じく紫雨も身を起こそうとしていて視線がかち合い、ふたりは気まずい空気の中、再び湯に沈む。
「もしかして、滑ってこけたんじゃないのー? だいじょうぶー?」
 頭と身体が泡だらけになって洗われている療が、少し大きめの声で仕切りの向こうに声をかけた。
 返事がない。
 この浴槽と洗い場の間は、浴槽に使われているような、大きな岩を切り出した石板が敷き詰めてあった。もしここで滑って身体を打っていたのなら、それなりに痛いはずだ。
「大丈夫かー? 大丈夫になったら声かけてやれよー心配してるからー」
 竜紅人が質の悪い笑みを浮かべて、叶と紫雨を見ている。
 余計なことをと思った叶だったが、心配だったのは確かだった。
『……すみません。もう大丈夫ですから』
『痛くて重かったけど、もう大丈夫だよー』

 びしっと空気が凍ったように感じたのは一体なんなのか。
 叶の頭の中では、香彩が放ったある言葉がぐるぐると回り、反芻していた。
「き、気を付けて下さいねー」
 言葉をかけることが出来たが、果たしていつも通りの声が出たのか。
 爆弾を落としたつもりのない香彩と咲蘭からは、はーいと返事が返ってきた。
 再び沈黙が温泉内に降りる。
 竜紅人と療がしゃかしゃかと身体を洗う音以外特に何も聞こえない。
 ようやく静かになって落ち着いて湯を楽しむことが出来るかと思いきや、静かになったらなったらで、仕切りの向こうが気になって仕方がない。
 姿が見えない分、余計に。
 気にしないでおこう、気にしたら余計に気になる。
「……後悔してるんじゃないのか」
 叶の少し離れた横で、目を瞑りながら浸かっていた紫雨が叶に話かける。
「何がです?」
 絶妙な頃合いで声をかけてくるものだ。
 叶は小さく息を吐いて、紫雨を見る。
「あなたこそ、後悔してるんじゃないんですか?」
「さぁ、どうだろうな。組み分けに間違いはないと思っていたが、いっそのこと貸し切りを三つにすればよかったと、一瞬は思ったがな」
 紫雨は、叶ににやりと笑いそう言った。
(お、温泉の貸し切りを三つ……)
 そうすると二人ずつで入る計算になる。
 あとは組み合わせ、と考えて叶の顔に赤みがさした。
 その様子を見ていた紫雨は、くつくつと声に出して笑う。
「それだと、意味がないだろうが」
 まぁ、俺は構わんがなと笑う紫雨に、叶はむっとする。
「かまわないというのでしたら、今からでも療と香彩を入れ替えますか?」
「療と咲蘭でも構わんぞ」
 叶はくっと奥歯を噛みしめて黙る。
 両者の間に再び沈黙が流れた。

 その時だった。

『や……ちょっとそこくすぐったい!』
『ほらちゃんと座ってじっとして。頭が洗えないでしょう? こっちを向いて』
『耳の裏とか横とか、だめなんだってば!』
『何がだめですか? ちゃんと洗わないいけませんよ』
『えー。あ、痛っ、石鹸が目に入った』
『だからじっとしてなさいって言ったじゃないですか。ほら……見せてみて』
『ん……』
『これで……大丈夫?』
『うん。ありがとう……咲蘭様』
『ほら、ちゃんと大人しくして……』



                      ■ ■ 



 温泉から上がって、咲蘭に髪の毛を綺麗にまとめてもらい、ほくほくの上機嫌の様子の香彩と咲蘭が聞いたのは、紫雨と叶が湯にのぼせてしまったということだった。
「紫雨と叶様大丈夫なの?」
 ふたりが休んでいる部屋の入口で、香彩が竜紅人に問いかける。
 竜紅人は大きく溜息をついて横にいる療に話かけた。
「脱衣所に上がった途端だもんな、ばたんっていったの」
「そうそう。オイラびっくりしちゃった」
 珍しいこともあるものだと香彩は思った。
「ま、今んとこ冷やして寝かしてるから。もう少し回復したら水も飲めるだろうし、大丈夫だ」
 竜紅人は部屋の中のふたりの様子を伺うような様子を見せたかと思うと、香彩と咲蘭に少し近寄るように、手で来い来いという仕草をする。
 そして耳打ちでこう告げたのだ。






「ちょっと、やりすぎたな。……おふたりさん」

                                       <終>

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