夢現奇譚シリーズ長編

天昇

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序章


 目を離すのではなかったと後悔をした。
 気付けば既にその姿は無く、雲の隙間から落ちてしまったのだと分かった。
 遙か、遙か眼下の地上へ。
 追いかけなければ、見つけなければ。
 狩られてしまう……。






 水の気配が漂っていた。
 ただそこに在るだけで、森の中にある川沿いを歩いているかのような、冷えて澄んだ湿り気ある空気が広がる。側にあるだけで、日々の喧噪を忘れてゆったりと癒され、落ち着いてしまう。
 彼はまさにそんな水の魔妖(まよう)であった。
 水の魔妖は、片膝を折り、頭こうべを垂れている。
 敬意の証だ。
「遠路遙々、よくいらっしゃいました。金比羅(こんぴら)殿」
 耳心地の良い声が、響く。
 金比羅と呼ばれた水の魔妖は、頭を上げると重さを感じさせない動作で、すっと立ち上がった。腰の辺りまで真っ直ぐに綺麗に伸ばされた、薄青色の髪が動きに合わせてさらりと揺れる。
「急な請謁に応じていただき、感謝致します。(かのと)様」
 その言葉に叶と呼ばれた者が、まるで面白いものを見つけた子供のように、にいと笑う。
「面白いことになっているようですね」
 どこから取り出したのか、叶は白翼の付いた扇で自身を扇ぐ。
 そして用意されている長椅子に、ゆったりと横になった。
 身体に纏わり付くかのような、長く真っ直ぐな銀糸の髪が長椅子に広がる。それを特に気に留める様子もなく、彼は長椅子の手すりに肩肘をついた。
  金比羅は言葉を返すことなく、ただ無言のまま叶を見ている。
(ぬえ)、ですか。……元々天に住まうはずの者が、何故降りてきたのか」
 気になりますねぇ、と言いながら叶は扇を広げ、口元を隠す。
 金比羅は何も反応せず、ただ彼を見続けていた。
 今自身が反応すれば、どんな言葉を彼に向けてしまうのか、分からなかったからだ。それくらい心の深いところで、じんわりと温められていく下火のように小さな怒りという感情が積もっていくのが分かった。
 だがそんな感情も、叶からすれば『面白いこと』のひとつにすぎないことも、金比羅は分かっていた。
 叶という全ての魔妖の王であり、また神の化身ともいうべき彼の気まぐれさは、決して今に始まったことではないのだ。
 金比羅は小さく嘆息して、感情を、呼吸を整える。
「その降りてきた場所が、我が霊鷲山(りょうじゅせん)国とこの麗国とを繋ぐ街道であり、今もまるで何かを探すかのように、付近を徘徊しているのです」
 報告や目撃証言は多数。今はまだ霊鷲山側で目撃されているが、麗国側に伝わるのも時間の問題だった。
「街道を使う旅人や商人は、足止めを余儀なくされている状態です。このままでは両国の物資の物流が途絶えてしまいます。また迂回をした者が誤って鬼族(きぞく)の生息範囲に入ってしまい、攫われてしまう報告も受けています」
 人や魔妖に危害を加えている様子はないが、街道を利用している人々は、実際目にした者の話や噂にすっかり怯え、他のまだ開拓途中の獣道のような街道へと迂回している状況なのだ。整備されていない道はまだまだ獣や、野生の魔妖がいて大変危ない。
 またその迂回として使っている道は、鬼族と呼ばれる鬼達の住む生息範囲に近い。彼らの中には未だ人を食料として狩る種属も存在しているため、彼らに攫われたら最期、生きては帰って来ることは出来ないだろう。
 腕に自信のある剛の者や、護衛のある者は迂回の道を進むことが出来るが、それ以外の旅人や様々な物資を運ぶ商人なんかは、国境近くの山宿に足止めをされている。
 このままでは、今はさほど影響はないが、後に生活物資の流通に影響が出てくる。それに鵺の天妖としてのの甚大な気配に、付近に生息する他の魔妖達が触発され凶暴化する危険性もあった。
「叶様、どうかご助力を。我ら霊鷲山の者は皆、水の属性。雷獣である鵺とは相性は悪く、警戒され、話をすることすら適いません」
 どうか、ご助力を。
 金比羅が重ねて言う。
 叶の口元は扇で隠されたままであり、その紫闇の瞳だけが金比羅に向いていた。金比羅は決して叶から視線を外さず、ひたむきに見つめている。瞳だけでは、どうも表情を読むことができない。
 その隠された口元は、一体どんな感情を浮かべているのか。
 沈黙が続いた。
 やがて、小さく息をついたのは、叶の方だった。
「……分かりました、金比羅殿。この件、お引き受け致しましょう。早急に天妖と話のできる、腕の立つ者を派遣致します」
「感謝至極に存じます」
 金比羅は片膝を付き、深々と頭を下げた。
 ぱたん、と扇を閉じる音が聞こえる。
 もしこの時、金比羅が頭を上げていたなら、見ることができただろう。
 決して感情を表に出さない、無という表情を。
 そしてその窃笑を。







「……つーか、お前が行けばいいだろうが! お前が! お前が行けば平穏無事丸くおさまるじゃねぇか。そんなよく分からん所に行って、分からん者に会って、何かあったらどうするんだよ! 責任持てねぇぞ、俺は!」
 主君ともいうべき上司に、食って掛かる威勢のいい声が、主君館と呼ばれる政務室に響き渡った。かなりの声量に渡床(わたりどの)を歩いていた者は、きっと何事かと思っただろう。横で様子を見守っていたふたりの少年も、思わず耳を塞いだくらいだ。
 そして主君、叶もまた片耳を塞ぎ小さくため息をついた。
「役職的に主要ではなく身動きが取れ、ある程度の知識と経験値と戦力を持った者となると、お前達が適任なんですよ。竜紅人(りゅこうと)香彩(かさい)(りょう)」 
 叶は名前を呼びながら、ひとりひとりに視線を合わせた。
 竜紅人は先程の勢いが収まらないのか、だーかーらー何が適任だ、と抗議の続きに入る。香彩と療は戸惑い気味ながらも、無言のまま叶と視線を合わせた。
「まずは香彩」
 叶に呼ばれ、香彩は静かな声音で返事をする。
「魔妖に関しては本職であり、それなりの知識や経験もある縛魔師」
 そんな風に言われ、どう返事すればいいのか香彩は再度戸惑う。竜紅人が抗議していた適任云々を、叶はどうやら本人を目の前に説明する気らしい。
 縛魔師とは術を操る術力を体内に宿し、祈祷や占術、国の季節ごとの祀りを行う者達のことであり、役職名を大司徒(だいしと)、その補佐を司徒(しと)といった。香彩は現在、司徒だ。縛魔師は祀事の他にも、祓えや浄火、人に危害を加えた魔妖の退治などの仕事があり、魔妖関連の仕事はまさに専門職だ。
「次に療」
 呼ばれた療は、緊張気味に返事をする。手や肩に力が入っている様子で、叩けばこんこんと音が鳴りそうなくらいだ。
「今回、人が鬼族に攫われているようです」
 療は、冷水に触れたかのように、はっとする。
「鬼族の生息範囲に近いということもありますし、決して他人事ではないと思いますよ。 ねぇ、宿衛兵の療」
 宿衛兵とは軍事や警備を司る、大司馬の中でも城内の警備をしている者のことを言う。担当場所はある程度決まってはいるが、何より数が多いのだ。
「それに仙猫山を含めて、あの辺りの地理は誰よりも詳しいでしょう?」
 頼みましたよ、と言う叶に、療は短く返事をする。
「そして、さっきから五月蠅いですよ、竜紅人」
 叶の言葉に、竜紅人は五月蠅いとは何だと言い返す。
「相手は天妖です。『謳われるもの』である貴方が一番、相性が合うんじゃないでしょうか? 司冠(しこう)になってまだ日もまだ浅いですし、仕事もまだ廻ってきてきていないのでしょう? 大司冠(だいしこう)からはお許しは貰っていますよ」
 叶はにっこりと笑う。
 先程からぎゃんぎゃんと抗議していた竜紅人は、その笑みと手際の良さに大きくため息をついた。大司冠は法令を司り、契約の証人の管理等を司どる役職で、司冠はその補佐だ。まだ研修中で仕事を管理するというよりは、追いかけられているという状態だった。
 確かに自分が抜けても仕事はちゃんと動く。
 しかも相手が天妖ならば、出されても仕方ないとそう思う。
 だが。
「ちょっと待て。それだったら、やっぱりお前でもいいんじゃないか!」
「お馬鹿さんですねぇ。状況も分からないところに、いきなり大将が出て行っては警戒されて反発を喰らうだけじゃないですか」
 確かに、と叶の言い分に思わず納得しそうになった竜紅人だ。
 大将、こと叶はこの麗国の主だ。そしてかつては天に住まう魔妖の神であったのだという。
 この麗の地はその昔、妖、魔妖の跋扈する荒れた土地であったが、闘鬼神阿修羅という名の天数の神が、この地に降り麗という名の国を造ると、魔妖は静かに身を潜めたのだ。何故なら彼は天にいる時から魔妖の神であり、人を魔妖から救う神でもあった。阿修羅は人を守るためにこの地に居着いたが、人は彼を国の主に祀り上げた。
 だが、神とて妖。
 麗国は妖を王にすることで、妖から身を守っている国なのだ。
 天妖からすれば無条件で手を差し伸べてくれる相手ではないだけに、いきなり叶が現れたら反発するだろう。余計な手を出して、全面戦争にならないことだけを祈るだけだ。
「……だーもう、分かったよ! 行けばいいんだろうが、行けば!」
 少し癖のある長い伽羅色の髪をかきむしるようにして、竜紅人がそう返事をすれば、返ってきたのは叶のにこりとしたなんともいえない笑顔だった。
 げんなりとした様子で竜紅人は香彩と療を見る。ふたりともただ乾いた笑いを返しただけだ。


「それに貴方には、とってもいい出会いがあるかもしれませんしね」



 叶の呟きは、誰の耳にも届くことはなかった……。

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