9.
――――見つけた。
ようやく、ようやくその姿を捉えることが出来た。
気持ちの良く、とても懐かしい気配に惹かれていたのか。
それとも、とても強大で洗練された月のような力に惹かれたのか。
落ちた場所と思われる場所から、かなり移動している。
――――行かなくては。
月のような力の持ち主は、我々にとって媚薬であり、天敵だ。
――――行って取り戻さなければ。
狩られてしまう。
だが、行かなくてはと思うのに、どういうことだろう。
身体がとても重くてかなわない。
何かが雁字搦めにこの身体を絡めとり、地へ、地へと縫い付けようとする。
――――何と強い陰の気だろう。
このままでは、たとえ取り戻したとしても、帰ることが出来ない。
天へ昇るための力が。
地へと吸い取られ捕らわれる。
――――どうすれば。
四肢を踏ん張り、背にある翼を広げ、飛翔する。
ああ、重い。
何と強い、この。
ああ……そうか。
――――原因を絶てばいい。
この重くしがらみに捕らわれた、哀れな陰の気の持ち主ごと絶てば。
この身体は軽くなり、帰れるだろう。
絶てば、いいのだ。
療はなんとなく、天井の木目を見ていた。
寝具を用意して竜紅人を寝かせて、自分も床に就いたはずだったのだが、何だが妙に目が冴えていた。
身体は疲労感を訴えている。
早朝から歩き通しで、夕暮れ前までに碧麗の街に到着しなければいけないという精神的な圧力と、『人』である香彩との体力的な兼ね合い。そしてようやく街に着いたと思えば、結構な速度で走りだした竜紅人を追いかけ、かつての仲間との再会した。
疲れていないわけではないのに、どうしたことだろう。
療は小さく息をついて、寝返りを打ちつつ目を閉じる。
寝てしまわないといけないのだ。明日から、帰城の旅路なのだから。
ふと、視線を感じて療は目を開けた。
寝ていると思っていた竜紅人と、視線が合う。
「……眠れねぇの? お前」
「……竜ちゃんこそ、もう寝たと思ってたよオイラ」
びっくりしたと言う療に、竜紅人の少し笑ったような気配がした。
昨日から様子のおかしかった竜紅人だ。
夕餉もそこそこに床に就き、今朝からはあまり話をせずに、まるで何かに追い立てられるかのように、そして何かに呼ばれるかのように、この碧麗にやってきた。
(でもまさか)
陽の暮れる前の、愚者の森へ単独で走って行くとは思わなかった。
普段の竜紅人ならば決してそんな不注意なことはしない筈だ。ましてや保護対象である香彩を置いて行くなど、有り得ない話だった。
(……それ程までに)
あの少女とは、深い繋がりのような何かがあるのだ。
竜紅人が寝具から起き上がる。
つられるようにして療もまた起き上がった。この季節特有の凍て返る寒さに、上掛けを自分の膝へと寄せる。
夜も更け、あと数刻もしないうちに日付が変わってしまう、そんな時間だった。
何やら思い詰めたような表情を浮かべていた竜紅人が、小さく息を吐いて療を見る。
「大丈夫なのか? お前」
「――――何が?」
療はきょとんとして竜紅人を見た。
だがすぐに竜紅人が何を聞いているのか理解した療は、思わずそれはこちらの言葉であり言い分だよと、心の中で唸った。
竜紅人の視線は療から離れない。
すまない、とそんな言葉が聞こえたのは、竜紅人の口からだ。
「……お前達のことを考えてる余裕がなかった。俺が『力』を抑えないで愚者の森に入ってしまったら、当然のことながら鬼族は動く。触発する。分かっていたはずだったのにな」
竜紅人は自身特有の『神気』を纏っている。
普段は抑え込まれていて感じることは少ないが、愚者の森を高速で移動していた竜紅人は確かに、きんとした冬の空気のような気配を振り撒いていた。
人に対する妖気が徐々に身体を侵す毒であるのと同じに、魔妖に対する神気もまた、体を内側から瓦解させる毒の様なものだ。そんなものが魔妖の棲家に侵入したとあれば彼らは攻撃的になり、また先遣隊の役割を果たしている土鬼族が出てきても不思議ではなかった。
だが。
森に入った途端に感じられた『騒がしさ』は、竜紅人のそれとは違った感じがしたのも事実だった。
森の空気を既に微毒で掻き回されたあとに、竜紅人の大きな『神気』が入ってきた、そんな感じを療は受けていたのだ。
それは一体どういうことなのか。
考え込む表情を見せる療に、竜紅人は再び息を付く。
「……同胞と戦わせてしまったな」
竜紅人の言葉に、療は勢いよく首を横に振った。
「いやいやいやいや、オイラ戦ってないよ。そりゃ、牽制はしてたけど」
「それに、お前が愚者の森へ入る危険性を、考慮していなかった」
「……ま、結果良ければ全て良しってね」
「――――お前なぁ……」
溜息混じりの呆れた感じで言う竜紅人に、療は笑って見せる。
それは乾いた笑いだった。
ふたりの間に沈黙が降りる。
「実は……さ」
ぽそりと呟くように療が言う。
「実はオイラ、碧麗に着いたら、夜こっそり抜け出すつもりだったんだ。里の様子を……見に行こうと思ってた」
療の言葉に竜紅人は内心ぎょっとする。
「馬鹿かお前。まさか自分がどんな目に遭ったか忘れたんじゃないだろうな」
療が再び乾いた笑いを見せた。
「自分でも馬鹿だなぁって思う。叶様に鬼族のことをどうにかしろって言われて、とても気がかりだったんだ。……竜紅人が愚者の森を西へ向かって走り出した時……あ、怒らないでよ。とても焦ったけど、同時に幸運の機会が巡ってきたって思った」
竜紅人は相槌も打たず、ただ療を見ながら話を聞いていた。
「これで鬼族に接触できるって思った。だけどまさかあんなことになってるなんて、思いもしなくて」
「……何も入って来なかったのか?」
「多分、止められてたんだろうね」
誰にとは療は言わなかった。
療の立場では決して言うことはないと竜紅人は分かっていた。
「あいつのやりそうなことだよな。今回のことも何か分かってて隠してる感じがするしな」
竜紅人の言葉に、療は少し困ったような表情を見せた。
「……でも結果的に、水蓮に会って話をすることが出来て、よかったと思ってるよ」
療は少し遠い目をして思い出していたようだったが、気分を変えるかのように、しっかりと竜紅人に視線を合わせた。
「そんなオイラのことより、竜紅人の方が心配だよオイラ。覚えてないだなんんて耄碌するにはまだ早いよ」
「あのなぁ……」
竜紅人が療に文句を言おうとしたその時だった。
空間の揺らめきを感じて、咄嗟に竜紅人が立ち上がる。
療もまたその『力』の発動に思わず、神経を研ぎ澄ませた。
見知った人物が織り成すそれは。
「……ったくはた迷惑な!」
ほっとした様子で、だが腹立だしそうに竜紅人が座る。
よく知った気配の『術力』が形成したのは、結界だった。
「聞かれたくない話、だったのかな?」
人を遥かに凌駕する聴力を持つ療と竜紅人だが、さすがに結界の中で話されては、その聴力を持ってしても聞くことは出来ない。
少し離れた場所にいるのは、きっと寝ていると思われている自分達を結界の気配で起こさないためか、それとも。
(結界を張って話をしたことを、気付かれないようにするためか)
紫雨と香彩にとって、この離れにいる竜紅人、療、そして咲蘭は、あまりにもあちら側すぎるという認識なのだろう。
「まぁ、大体想像つくけどな」
「 ? 」
「事情聴取」
竜紅人の言葉に一瞬きょとんとした療だったが、ああ、と納得する。
今回の旅を紫雨が知らなかった可能性は大いにあるのだ。そう、自分たちが勅命を受けた時、彼らは視察の為に数日前から城を出ていたのだから。
そして碧麗で会った。
これは果たして偶然なのだろうか。
そんなことを考えていた矢先の出来事だった。
隣の部屋が騒がしくなったのは。
療と竜紅人が顔を見合わせる。
何かが勢いよく倒れ、割れる音がした。
そして。
静けさを引き裂くかのような、甲高い獣の声が響き渡る。
隣の部屋は確か。
咲蘭と葵の部屋ではなかったか。
療と竜紅人は勢いよく、自分達の部屋から飛び出したのだ。