何とも気持ちよく、すんなりと目が開いた。
時は深夜を過ぎた辺りだろうか。
寝着一枚では少し肌寒いそんな気候の中、髪を少し揺らす程度の、ゆるく暖かい風が吹いていた。
混ざるのは、ほのかに香る、花の香り。
叶は味わうかのように、その芳香を吸い、細く吐き出した。
ついた息を追うように、視線を上げる。
薄い雲が何層にも広がっていた。その真中にあるほのかに霞む月が、空の陰影を濃く、または淡く彩る。
濃淡な雲の影は楼台にも映り、深夜にも関わらず、辺りは微かに淡く、明るさがあった。
再び温暖な風が吹いた。
まるで柔らかく質の良い綿毛のように、自身を暖かく包んでくれる。
それのなんと心地良いことか。
こんな夜は、人肌が恋しくなる。
甘やかな春の香り漂う、暑くもなければ寒くもない気候の中、触れる人肌の心地良さが、風の心地良さと相俟って、より恋しくなる。
思い出すのはただひとり。
彼の春の宵に似た色の髪が、春の微風に靡かれるところを想像し、叶は小さく息をついた。
靡かれる髪を気にして手で押さえながら、微笑むその姿はきっと情景だろう。
「……叶?」
その声に、叶は思わず息を詰めた。
声の主の方に振り向けば、確かに先程、思い描いていた彼が目の前にいた。
「まさか、起きているとは思いませんでした」
まぁ、起きていなくても叩き起こそうかなと思っていたんですけどね、と優美な笑みを浮かべて彼は言う。
深夜なんとなく目が醒めてしまった、ただそれだけだったのに、どうして彼はそこにいるのだろう。
確かに会いたいと思った。
この巡り合わせがこわいくらいに、心の中から嬉しさが湧き出てくる。
「……このような時間に、どうしたのですか?
叶の言葉に咲蘭は小さく息をつく。
「どうも目が冴えてしまって」
叶の目の前にすっと差し出されたのは、一升瓶。
「いいものを、持ってますね」
咲蘭は優雅に微笑んでこう言った。
「……お付き合いいだだけますか?」
「ええ、喜んで」
咲蘭の笑みに笑みで返して、叶は自室へと促した。
酒の銘柄を
春花の一種である桜の花びらの入った酒で、少々甘いがきりりとした舌触りが特徴だ。酒のつんとした香りの中に、春花の芳醇な香りも混ざっていて、香りだけで酔いそうになる。また酒の中に入っている花びらは塩漬けされているため、食むとその塩気と酒が絶妙に合った。
今宵、酔うにはとてもいいお酒だと、叶は思った。
何より咲蘭が自分を叩き起こしてまで酒に付き合わそうと、わざわざ来たのだと思うと、それだけで胸の中が暖かくなる。
普段であれば正面に座る咲蘭も、今日は叶の隣だ。
いつもは『男』を意識して
時折、衣擦れの音とともに咲蘭が足の向きを変える。夜着の裾の隙間からちらちら見える白い足首に、思わず目を背けてしまう叶だ。
叶に酒を注ごうとした咲蘭を、叶は笑みで制して、咲蘭の杯に注ぐ。咲蘭はそれを、とても美味しそうに飲み干した。
咲蘭は酒が強い。
叶もどちらかと言えば強い方であるが、咲蘭には負ける。真剣に勝負をしたことはないが、そんな気がする。あまり酔ったという印象がないのだ。むしろ変わらない気がしている。
「咲蘭は、強いですね? お酒」
「仕事の関係上、鍛えられましたからね。あの人に」
あの人、という言い回しに叶は、咲蘭に気付かれない程度に、先程までの表情を少し、曇らせた。
「……ああ、
咲蘭と紫雨は仕事上、共にあることも多い。すると必要上、共に食事を共にすることも多いのだ。
始めの内は自分の加減が分からず、悪酔いをすることもあった咲蘭だったが、紫雨と食事を重ねる毎に共に酒を楽しめるまでになっていた。
叶と飲む機会もあったが、気付けば咲蘭は自身の加減を理解していた。
それがどういうことなのか、わからない叶ではなかった。
「麗国で一番値が張って、強い神澪酒をまるで水のように飲んでましたからね」
懐かしむような口調の咲蘭に、叶は無言で自分の杯に残る酒を仰いだ。
「……咲蘭……?」
お互いに注いだ酒が何杯目になるのか、もう覚えていない。不意に静かになってしまった咲蘭を気遣い、叶が名前を呼ぶ。
咲蘭の息をつめた様子が分かった。視線がそろそろと叶に向く。
酒に潤んだ目と視線が合う。頬は紅をさしたかのように、薄っすらと春花と同じ色に染まっていた。めずらしいこともあるものだと、叶は思った。普段は滅多に顔に出ない咲蘭の中々見ることが出来ない姿に、叶は咲蘭から視線を外せない。
やがて、そっと、咲蘭が叶から視線を外す。
「……少し、夜気に当たりに、行ってきますね…」
「大丈夫、ですか?」
「……ええ」
ゆっくりと咲蘭が立ち上がり、楼台に向かって歩を進めた。
それは一瞬の出来事だった。
咲蘭が体勢を崩して後ろに倒れこむところを、叶が抱きかかえる形で庇った。だが叶も急に動いてしまったせいか、くらりと眩暈がしてそのまま後方へ倒れ込んだ。
叶の痛そうなくぐもった声が聞こえて、咲蘭は慌てて上半身をひねり起こす。
叶は咲蘭の下敷きになっていた。だが咲蘭を支え抱える腕を緩めなかったのは、さすがというべきだろうか。
「す、すみません……叶、大丈夫ですか?」
自分の上から降る声に叶は答えようとした。大丈夫ですよ、咲蘭、怪我はありませんか。そんな言葉が脳裏に浮かんだのだと思う。
だが。
その感覚に眩暈がした。
倒れ込んだ時にお互いの夜着の裾が乱れ、素肌のままの足が絡み合っている。
その肌の、あまりにも心地良い感覚に眩暈がした。
先程、少しだけ見えた、白い足首。
その白い肌の足が、今、自分の肌に触れている。
♦♦♦
「――――……っ!」
気付けば視界が反転していた。
勢いに背中を打ち、咲蘭は息を詰めて痛みをやり過ごす。
絡められた足。
その肌の心地良さに、咲蘭はくらりと眩暈がした。
叶と視線が合う。
そのあまりにも痛く切ない表情に、咲蘭はその顔に触れようとした。
何故そんな顔をしているのか。
問おうとしたその声は。
叶の吐息によって止められた。
長い銀糸の横髪と、その吐息が、咲蘭の首筋にかかる。
「……あなたは何故ここに? 寝酒なら紫雨でもよかったでしょう?」
突然紫雨の名前が出てきて、咲蘭は困惑する。
それは一体どういうこと。
問いたいことがたくさんあった。
だがこの眩暈に似た感情が、咲蘭の正常な思考の邪魔をする。
叶の息はやがて耳に。
「……さくら…ん…?」
吐息のようなその声が耳の側で囁かれる。
やがてその口唇は、耳を一番柔いところを食み……。
♦♦♦
「――――……っ!」
多少強引に叶は体勢を入れ替えた。
勢いに背中を打ったのか、咲蘭の息を詰める声が聞こえた。
視線が合う。
その潤んだ瞳。
不意に叶は思った。
酔う、咲蘭の姿はとても艶やかだ。
では。
咲蘭に酒を教えたあの人は。
幾度この姿を目にしたのか。
叶は咲蘭の首筋に顔を寄せる。
今は顔を見られたくなかった。
「……あなたは何故ここに? 寝酒なら紫雨でもよかったでしょう?」
咲蘭が再び息を詰める。
叶は咲蘭の首筋から耳元へと、その口唇で辿る。
ねぇ、と咲蘭に尋ねるそれは、まるで。
「……さくら…ん…?」
まるで吐息のような声を、咲蘭の耳に吹き込む。
先程吐き出した言葉のあまりの不甲斐なさをごまかすかのように、叶は咲蘭の耳朶を、自身が持つ牙で軽く食んだ。
「……っあ」
今まで聞いたことがない咲蘭の声。
叶は自分の血流が速く駆け巡るのを感じていた。
不意に。
刻を告げる刻計の鐘が、部屋中に鳴り響いた。
深夜に聞くそれは、ふたりを驚かせるには十分な音の大きさだった。
反射的にふたりは離れ、少し距離を取る。
鐘が刻を告げ終わると、しんとした静けさが部屋の中に訪れた。
静寂の中に、自身を落ち着かせようとするふたりの息遣いだけが、聞こえた。
そんな静けさを、先に破ったのは咲蘭だった。
「……部屋に戻りますね」
咲蘭の言葉に叶は無言でこくりと頷いた。
部屋を出ていく咲蘭を視線で追うが、咲蘭はその視線に気付いたのか気付かなかったのか、振り向きもせず、部屋を出て行った。
咲蘭が部屋から離れたことを気配で察し、叶は今までにない大きな溜息をついた。くしゃりと悔し気に忌々し気に前髪を掻き揚げて、更にもう一度溜息をつく。
やってしまった。
そう思った。
だが咲蘭が部屋を出て行ってくれて、正直ほっとしていた。
もしここで咲蘭と話をしていたら、自分は。
あの肌の気持ち良さと嫉妬で、どうにかなっていた。
「……やはり、怒っているんでしょうね……」
何も言わず、出て行ったのがいい証拠だ。
嫌われていたらどうしたらいいのか。明日どんな顔をして会えばいいのか。
叶は再び大きな溜息をついた。
自室に戻ってきた咲蘭は戸を閉めた途端、気が抜けたのか、すとんと座り込んだ。戸にもたれかかって、大きく溜息をつく。
その息は震えていた。
怖さからくる震えではない自覚はあった。
叶に尋ねたいことがたくさんあった。だがそれはあの場で問うべきことじゃないと判断して、早々に部屋から去った。追われていた視線も無視した。
咲蘭は再び溜息をつく。
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。
咲蘭は自分の両腕で、自分を抱きしめる。
その感覚に、自分を転倒から庇ってくれた叶を思い出す。
引き寄せられた、力強さ。
その身体の重み。
温かさ、人肌の気持ちよさ、そして……。
(……さくら…ん…)
耳元で囁かれる、心地良い低く艶のある声。
耳朶を食む熱さ。
「――――……っっ!」
もしあの時、刻計が鳴らなかったら。
春花の香りの中、ほろ酔いのまま自分は。
抵抗しなかったはずだと気付かされて、咲蘭は愕然とする。
明日からどんな顔をして会えばいいのか。
咲蘭は三度大きな溜息をついた。
<終>