Suicide Seaside

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 海が、見たくなった。
 さざ波の音を、潮の香りを恋しいと思った。
 空を見上げれば、薄く雲がかかっているせいか、さほど蒼くはなかった。
 見渡せば緑の欠片もない地平線が、大地を永遠のもののようにしているかのようだ。
 山はどこへ行ったのだろう。
 川はどうしたのだろう。海は……。
 冷水に触れたかのように彼は、はっとする。
 はじめて知ったのだ。何もかも失くして初めて……。
 海との距離が、こんなに近かったことを。



1 潮騒



「よう! 特待生」
 鼻を突き、目を乾かせる奇妙な薬品の臭いのする廊下で、佐々木優也は前を歩く少年に声をかけた。  えっ、とした顔をして振り返る少年の顔はかなり驚いている。どうやら物思いに耽っているときに声をかけてしまったらしい
「……やめてくださいよ、そういう風に呼ぶの」
 少年は小さくため息をついた。
 咎めてはいるが、心ここにあらずで覇気がない。いつもならば、うるさいくらい言い返してくるというのに。 「さては、中てられたな。”天使”に」
 優也の言葉に、こくりと、少年がうなずく。
 少年の名を佐々波神璃(さざなみしんり)といった。
 色素の薄い明るいめの栗色の髪に、海の底のような透明感のある群青の瞳を持つ少年の特徴を、一度見た者は決して忘れないだろう。この国には決して多いとは言えない特徴だ。それだけではなく神璃には、人を惹きつけてしまう何かがあった。それは性格であったり人柄であったりと様々だが、忘れられない何かが心の琴線を揺さぶる、といった感じだろうか。
「ま、見慣れはしないだろうな。なんせここの看板だ」
 優也の視線の先にあるのは、目に痛いくらいに白い、とても大きなドアだった。かなり特殊なセキュリティが働いていて、ごくわずかな人間しか入ることを許されていない。この扉の向こうに。
 ”天使”が、いる。
 ここ、B・M生物科学研究所は国が設立した国の施設であり、国中の生物学者、科学者を集めて、生物の謎や人間を含めた自然界に起こる現象を研究し、自然現象のあいだにある関係、原因などを調べ、その法則を求めるのが表向きの公表だ。
 その付属的高等学校の肩書きを持つ私立架凛高校は、2年生になると普通学科か研究学科どちらかの選択を迫られる。研究学科の場合は面接があり、1クラス人数の30名のみが合格という狭き門だ。そうして受かったと思いきや、見習い研究員としての面接があり、更には試験と続き、実際に高校で研究学科を学びながら、研究所を行き来できるようになる学生は10人も満たない。
 神璃は成績や人柄、内申において書類審査だけで合格となり「特待生」という地位を獲得した。この研究所に入ることは小さい頃からの夢であったのだという。
 ――自分の夢を実現させるために生きてきました。
 神璃はある日そう言った。
 何の話題でそうなったのかは思い出せないが、優也は後輩である彼の言葉が妙に気になった。
 優也自身、何故自分がこの道に進んだのか未だに疑問が残る。高校入学時にはあまり将来のことなど、考えずに日々を過ごしていた。なまじ表情が明るく口が上手くおまけにそこそこ頭も良かったため、何気に進んだ研究学科で研究見習いになり、気づいたら研究員かつ教授だ。
 考えが変わったのは、「天使」に会ってからだ。生命の神秘に近づきたいと解き明かしたいとこの時初めて思い、今ではその道の第一人者になってしまった。成り行きで、といえばそれまでだが、神璃の気持ちが未だ掴みきれていないというのも事実だ。
 神璃のいう”夢”というものが違う捉え方のように思えたのだ。
(全ては俺の勝手な解釈だけどな)
 神璃を見ると、とても怪訝そうな顔をしていた。
「……佐々木……教授?」
 おそるおそる神璃は優也に声をかける。
「難しい顔をして、どうしたんですか? お疲れになったんですか?」
 どうやら考え事をしていたものが顔に出てしまっていたらしい。
 咳払いをひとつして、優也は今考えていた内容をとりあえず切り替えることにする。
「――――
……娘が、泣くなぁ。神璃

 優也の言葉にきょとんとしていた神璃だが、あっと何かを思い出し、すみませんごめんなさいと優也にぺこぺこと頭を下げて平謝りをする。
「”優也さん”でしたね」
 そうそう、と優也は笑いながら頷いた。
 優也には架稜良(かろうら)という名前の十歳になる娘がいる。母親は架稜良が幼い頃に亡くなり、優也が男手ひとつで娘を育てている。自宅でひとりにさせていることが気が気でないらしく、優也は仕事の終わる時間まで、娘を自分の研究室に預けているのだ。架稜良は生まれつき身体が弱く、学校も登校できるときに登校し、後の教育は通信のものか、研究員の誰かに教えて貰っている。優也は仕事がら忙しい毎日のため、架稜良になかなか時間を割いてやることができない。そしてそんな研究員、教授という立場の父親を架稜良は決して好きではなかった。
 神璃はまだまだ見習いということもあり、課題さえ終わってしまえば時間が空いてしまう。そんな時、架稜良の遊び相手になりに行くのだが、優也のことを”教授”と言うと泣き出してしまうのだ。
 ――父さんのことは名前で呼んでよ。
 ――じゃないと架稜良、脱走するもん!
 泣かれても困るし、脱走されても困る。神璃は先輩である優也を、優也と架稜良の前でだけ名前で呼ぶことにしたのだ。
 それともうひとつ、と優也がにこりと笑う。
「”お疲れになったんですか?”はいかんな。確かに俺は君の倍は生きている。だが年寄り扱いするにはまだ早い!」
「……は、はぁ」
 曖昧に神璃が返事をする。
 今の自分の言葉使いが研究所幹部者に似てしまって、優也はああいやだいやだとひとりごねだした。童顔を隠すために伊達で度の入っていない眼鏡をしているが、それでも歳相応に見られない時がある。彼らからしてみれば、肩書きが何にしても優也はまだまだ若造なのだ。
「すこし現実に帰ってきたみたいだな」
「……おかげさまで」
 先程まで覇気のなかった神璃の表情が、少しずつだが元気な表情になりつつあった。
 まさに中てられるとはこのことだろう。
 ”天使”という異名を持つ、未知なる生命体。
 今から二十数年前に世界的遺産に登録されている遺跡から見つかったと言われてる。生命反応はあるのだが、これが果たして何なのか今現在解明されていない。
 特待生ということもあり、神璃にはこの謎の生命体の毎日のデータを取るという課題が出された。無論異例のことながら特殊セキュリティの登録者にもなっている。神秘と人を超えた美しさの生命体と毎日にらめっこをしていては夢心地になるのも無理はないだろう。
「――祐亮(ゆうすけ)と、いうらしいんです。あの天使」
「え」
 耳を疑った。今、神璃はなんと。
「言葉が話せるのか!?」
「いえ。天使の放つ光がモールス信号になっていたんです。名前は何って聞いたら教えてくれました。天使の意識が定かじゃないのでいつでも話が出来るというわけではないみたいですが」
 優也は声も出ない。
 これまで沢山の人々が天使を監視し、見守り続けてきたが、対した変化もなかったのだ。光というものもなかったように思う。天使に何か変化が生じたのだろうか。それとも神璃の能力が秀でていただけなのだろうか。
「神璃、中られている場合じゃない。すぐに報告書を書いて幹部に届けてくれ」
 神璃は、あっ、と思い出したかのような声を上げ、再び平謝りをしながら向き返り走っていった。
 思わず笑みを浮かべて神璃の背中を見やり、優也は例の特殊セキュリティの部屋の前に立つ。
 この研究所の遥か地下にあるAIマザーコンピュータ『SILENT』。
 ”全ての母”と言われる人工知能がこの研究所の機械、電気機器を司る。特殊セキュリティはこの『SILENT』に登録を行い、『SILENT』が認めた者しか開けることができないものだ。その判断は正式に手順を踏んで『SILENT』の電脳空間を訪れることが出来る者以外、覆されることはない。
 かちゃりとロックが解除される。
 『SILENT』へと直接情報が伝わる監視カメラが、静かな音を立てて動いているのが分かる。
 中に入ると今度は網膜識別式のドアロックがあり、それをクリアして初めて部屋に入ることが出来るのだ。
 白い空間の中に浮かび上がる、天使としか言いようのない生命体。白いカプセルの中で翠の培養液に抱かれて眠るその姿。目覚めればきっと力強くしなやかにはばたくのだろう3枚の翼。この世のものとは思えないその姿。だが身体はヒトのものだ。性別はないという報告を受けている。
「祐亮っていうらしいね?」
 返事の光はない。
 当然だな、と優也は傍にあった椅子に座った。モールス信号であれ、語ることが出来るということは、意思を思考を持っているということだ。自由になれない自分を好き勝手扱う研究員達を馴れ合える方がおかしい。
 ――だったら俺は世界中の動物の敵になる。嫌われる。
 そういうことをしようとしている。
「……お前と同じような者たちを、同じ人の手で造ろうとしている。機械に縛られる新生命体を――俺は」




  幹部へ報告書を渡し、自分の持ち場へ帰ろうとしている神璃の心は、煮え切らない怒りようなものがこみ上げていた。顔にこそ表れていないが、無意味に大声上げたくなる。
 報告書を受け取った幹部は、神璃の報告書を全て否定した。そして下げようとした報告書をなかば奪われる形で提出したのだ。理不尽な怒りだけが身の内に溜まって消化されず、やがて腐っていくのだ。夢と現実のギャップは、頭の中で分かっているのと実際そういう目に遭うのとでは精神的負担が全くもって違う。何日か後にふと思い出し、また腹立だしく思うことだろう。
「よう! 神璃」
 呼びかけられたという事に彼が気付いたのは、本人が通り過ぎて数秒経った後のことだった。はっ、と気付いて振り返ると、そこには、やれやれと頭を掻いている友人の姿があった。
「ああ、よかった。無視されるかと思った」
「――ごめん」
「お前がこんな風になるのって、ひとつのことに夢中になっている時か、嫌なことがあった時か、なんだけどね」
「かなわないなぁ」
 小気味よく神璃が笑う。
 彼、真矢樹把(まやたつは)とは小学校からの親友である。親よりも一緒にいる時間が長いかもしれないと神璃は思っていたのだが、そんなものだと終わってしまう歯切れのいい性格をしていた。樹把は合格率の低い見習い研究員の試験を見事に合格している。
「気晴らしに海でも行こうと思って誘いに研究室に行ったんだけど、佐々木教授が報告書を提出しに行ったって言ってたからさ。 ――原因はやっぱり幹部か」
「――まあね」
「だったらなおさらだ。内に溜めていたら病気になるぞ。海へ行こう」
「ああ。断る理由なんてないよ」





 B・M生物科学研究所は、低い山々に囲まれた窪地のような場所に建てられていて、高台になっている。研究所の外に出ると山道になっていて高台を降りると賑やかな街並みが広がり、その向こうに海がある。高台からも綺麗な海が見えて、潮風と山風が合わさり不思議な感覚がした。
「出かける前に優也さ……佐々木教授に声をかけてくるよ」
「ああ、じゃあ外で待ってるよ」
 じゃあ後でと樹把と別れて、神璃は特殊セキュリティの前に立ち、ロックが開くのを待つ。網膜識別式のドアロックもクリアして中に入ると、優也が天使の前で眠っている姿があった。
 優也さん、と声をかけると、半分寝ぼけたような返事が返ってきた。
「――ん、ああ、おかえり神璃。報告は終わったのか?」
「はい。提出してきました。それと今から樹把と海へ行こうかと思うんですけど、架稜良ちゃんも一緒にどうかと思って」
「ああ、是非連れて行ってやってほしい。最近研究所内ばかりだったから、つまらなさそうにしていたんだ」 「はい。夕方までには戻ります」
 神璃はふと天使へと視線を移した。
 そして行ってきます、と告げて部屋を後にする。  
 




 天使が短長に放った光を見たのは、優也だけだ

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