夢現奇譚シリーズ短編

 酒と男と少女
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「嬢ちゃん、悪いことは言わねぇ。その手に持っているブツを置いていきな」
 お決まりの様な台詞が、人々の往来する大通りに響き渡る。
 幾名かは足を止めてその様子を見ていたが、酒房通りの人はとどまることなく若干足早に流れていく。
 少女は自分の両腕で抱え込んで精一杯の大きさの酒瓶を、これでもかというくらい強く強く抱きしめた。  いつも通りのお使いのはずだった。
 いつも通りの酒造屋で、専用の包装して貰って。
 この包装紙の紙の匂いが好きなのだと彼は言った。そして軽く捲って、冠頭を開けた瞬間の、香るこの酒の匂いが好きなのだと。
 神澪酒(しんれいしゅ)という。
 麗国の中で一番値の張る高級酒であり、城下街で暮らす庶民には中々手の出ないものだ。
 少女はお使いでここ二日ほど立て続けに神澪酒を買いに来ていた。
 今日が三日目。
 見張られていたのだ。
 酒房通りに長い影が落ちる。それは直に消え、辺りは薄っすらと暗くなる。
 じりじりと男達が少女との距離を詰めていく。
 少女は怯えた。
 瞳が次第に潤み、手足がかたかたと震えた。
 ここで神澪酒を取られてしまったら、お使いがちゃんとできないことになってしまう。買い直すにもお金ももうない。何より、お使いに出してくれたご主人をがっかりさせてしまう。
 それだけは絶対に嫌だった。
「恨むんなら、こんな時間にいたいけな少女ひとりを使いに出した、主人を恨むんだな」
 少女は息を詰める。
 主人を恨む。
(……そんなこと、あるわけない)
 少女は潤んだ目で男達を睨み付ける。
 嗜虐心に駆られた彼らは気付くことはなかった。
 少女の周りで起こる、不思議な風を。








 「紅麗の酒房通りにあの子を使いに出したって本当!? 紫雨(むらさめ)!」
 麗城中枢楼閣最上階、陰陽屏。
 その中にある大司徒専用の政務私室に、少年の険のある大きな声が響き渡った。
 陰陽屏とは、麗国麗城を護る、陰陽縛魔師達の集う政務室である。国での役職名を大司徒、司徒といい、国の安定と安寧を願い、祈祷や占術、そして季節ごとの祀りの行使を仕事としている。
 卓子(つくえ)に向かい政務をしていた紫雨は、批判めいた少年の口調に億劫として振り返った。
香彩(かさい)、何なんだいきなり。使いなんぞ、いつものことだろうが」
「確かにいつもだけど、いつもは昼間だったじゃないか! なんだって今日はこんな夕暮れ前に使いになんか出すの!?」
「先程切れていることに気が付いたんだ。本人も喜んで使いに出たし、何が問題ある?」
「紫雨が言ったらあの子は喜んで行くに決まってるじゃないか!? 酒なんて一晩くらい我慢すればよかったんだ! こんな夕暮れ前によりにもよって紅麗に使いに出すなんて、何かあったらどうするんだよ!」
  鬼、悪魔と、怒りを顕わにして思いをぶつけてくる香彩に、紫雨は少々戸惑った。何故自分がここまで言われなければならないのか、理由が分からなかったのだ。
 紫雨は自分の横に控えている、物言わぬ静かな秘書官に視線を送る。
 香彩もそれに気付いたのか、(ねい)、と呼びかけた。
「ねぇ? 寧どう思う? ひどいと思わない?」
 ふたりに視線を投げかけられて、寧と呼ばれた青年は小さくため息を吐いた。
「でも確かにこの時間に、あの幼気(いたいけ)なお方を繁華街に使いに出されるのは、倫理にもとる行為かと」
 寧の言葉に紫雨は思わず卓子に突っ伏した。
「ほら! 寧も言ってるじゃないか!」
「幼気なお方って、あいつは……!」
「もういいよ! 僕迎えに行ってくる!」
 紫雨なんかもう知らないから、と捨て台詞のようなものを残して、香彩は嵐のように部屋を飛び出して行った。
 しんと静まり返った部屋の中、後に残された紫雨は、未だに事態を掴めずにいた。
「何なんだ、一体」
「少なくとも、この時間帯からでは香彩様の方が危ない気は致しますが、いかがなさいますか?」
「……ああ、頼む。あいつから目を離すな」
「御意」
 寧は紫雨に向かい一礼をし、部屋を後にした。








 式神である白虎に無理を言って背中に乗せて貰い、香彩と寧が紅麗に辿り着いた時には、日は既に傾き辺りは明かりがなければ、人の顔が分からないくらいに暗くなっていた。
 紅麗の中心である大通りでは夕市が開かれ、夕餉の食材や明日の朝餉の食材を求めて多くの人がごった返している。
 昼間は活気溢れる市だ。様々な品物や食べ物が並び、売り子たちの張りのある声が響く。だが夕方には夕市が、日も暮れるとそこは歓楽街へと変わる。気軽に飲み食いが出来る酒造屋を始め、薬屋や春画を売る屋台が出、昼間とはまた別の活気に満ち溢れる。
 屋台がそろそろ開く時間なのだろう。食欲をそそる美味しそうな匂いが辺りに漂い始める。
 例の『幼気なお方』がお使いに行った酒房通りは、大通りから少し離れた小通りにある。大通りに比べて道幅も狭く明かりも少ない為、大変暗く物騒だ。この通りに用事のある者は、よほどのことがない限り昼間に済ます。酒房通りにある酒造屋も、日が落ちてしまうと客の入りが極端に減るので、日の入りと同時に閉店する店が多い。
 香彩と寧が大通りから、酒造通りに入ろうとしたまさにその時だった。
 すさまじく大きな奔流が、この通りを駆け抜けた気がした。
 徒人ならば強風が通りを抜けていったように感じられただろう。だが、香彩も寧も徒人ではない。この世のものとは思えない、大いなる”力”を感じ取れ、借りて使う事の出来る者達だ。
 香彩が思わず生唾を飲んだ。
 寧は無意識に震える手を、ぐっと押さえ込む。
 大いなる奔流の正体は、”神気”と呼ばれるものだ。
 ”神気”が水の気配を伴って、爆発する。
 その衝撃に、香彩と寧は思わず目を瞑った。
 おそるおそる目を開けると、そこには二層式となっている建物の高さをゆうに越えた大きさを持つ、甲龍尾蛇(こうりゅうおだ)の龍が顕現していた。
 鱗色は蒼々とした蒼であり、甲羅から生える足には鋭い爪がある。そして長い尾があり、その先はまるで本体を護ろうとしているかのように、大蛇が周囲を威嚇している。長い角ととても大きく岩をもかみ砕きそうな大牙を見せ、龍は咆哮する。
 その音の凄まじさに香彩と寧は耳を塞ぐ。
 やがてその咆哮が止むと、きんとした耳鳴りが香彩を襲う。足元がふらつきながらも、香彩と寧は龍の近くまで走っていった。
 「た、た、たすけ……!」
「ひぃぃぃぃぃ」
 香彩と寧は途中数人の男達にすれ違う。
 甲龍尾蛇の龍の側には、大蛇に睨まれて動けなくなっている男と、龍の正面に座り込み、立てなくなっている男がいた。
 香彩はその男の前に出る。
 寧は大蛇に睨まれている男を助けようとするが、大蛇は寧に威嚇をした。
 甲龍尾蛇の龍は香彩とその後ろにいてる男と、双方を見て、再び大きく咆哮する。そして鋭い爪の生えた前脚を、地面に叩きつけた。酒房通りの道に敷き詰められていた厚い石板が、いとも簡単に割れて辺りに散らばる。
 大気までもが震えそうなその威嚇のうなり声は、香彩に向けられていた。
「……香彩様っ!」
 寧が香彩の側に行こうとするが、大蛇に阻まれる。開けた口の大きさとその鋭い牙に寧が怯む。
 香彩は甲龍尾蛇の龍の視線から放せずにいた。
 視線を外してしまうと、攻撃に移されてしまうと、なんとなくそう思った。
「……玄武」
 静かに、だが毅い声色で香彩が語りかける。
「玄武……ごめん。こんな時間に使いに出して……怖かったね。ごめん」
 香彩のその声が届いたのか、低く轟いていたうなり声が止んだ。
 ああ、やっぱりそうなのかと思った。
 この酒房通りから逃げてくる人や、今ここで気絶寸前で固まっている人が、やたら屈強で強面の男達ばかりだから、もしやと思ったのだ。
(……紫雨の馬鹿)
 ここにはいない全ての張本人に香彩は心の中で毒付く。
「帰ろう、玄武。紫雨も心配しているよ」
 玄武の目がすっと細められる。
 ぱん、と張り詰めた空気が拡散され、割れる音がした。
 気付けば香彩の腰の辺りには小さな少女がいて、ぎゅっとしがみついていた。
 香彩は少女と視線と同じくにするために、膝をつく。
「迎えにきたよ、玄武。帰ろう」
 香彩の言葉に玄武は、ふるふると首を横に振り、涙目になってあるものを指さした。
 それは玄武がお使いで頼まれた神澪酒だった。  
 神澪酒は無残にも割れ、その独特の包装紙に酒が染み込み、辺りはなんとも言えない匂いが漂っていた。
「……お使い、できない。がっかりさせちゃう」
 玄武の消えそうな物の言い方に、香彩はそっと少女の頭を撫でた。
 やっぱり一日くらいお酒なんで我慢しとけばよかったんだ、紫雨の馬鹿。
 香彩は心の中で何度目かの毒を吐く。
「……ごめんね。僕も今、持ち合わせが……」
 不意に香彩が寧を見る。
 寧はいつの間にか、『紅麗』の猛者達と何やら話をしているところだった。
 きっと目撃者が連絡をしたのだろう。
 彼らは夕市が始まった時間から明け方まで、紅麗の繁華街を見廻る役目を持った者達だ。先程その辺りで転がっていた男達とは、比べ物にならないくらい屈強な猛者だった。ちなみに先程の男達は、猛者達に縛り上げられ、連れて行かれるところだった。
 弁償を問うても時間はかかるだろう。
 それでは意味がない。
「――――……分かりました」
 香彩の視線を察した寧が、大きく大きく溜息をついた。







 ご苦労だった、という声を無視する形で自室に入っていく香彩に、紫雨は怪訝そうな顔をした。
 眼下では玄武がとても嬉しそうな顔をして、神澪酒を紫雨に差し出していた。受け取る時に見えたその着衣の汚れ具合に、目を見張る。
 紫雨が玄武の頭をそっと撫でると、よかったの、とひとこと言って、玄武はその姿を消した。在る場所に還ったのだ。
「で? あいつの機嫌はまだ直らない、か」
 紫雨は側に控えていた寧に問う。
「……直るどころか、余計に損ねたかと」
「何?」
「口には出していらっしゃいませんが、顔にはそれはそれは紫雨様への不満がありありと」
 心なしか、口調は柔らかいが寧の言葉の中に含みを棘を感じて、紫雨は更に怪訝そうな面持ちのまま、寧を見る。
 寧は笑顔を張りつかせたまま、紫雨に二枚の書状を差し出した。

 それは。
「…………」  
 立て替えた神澪酒代と。
 酒房通りで玄武が壊した道の石板代の請求書。 
 それでは、と特に詳細を告げずに寧が部屋を後にする。
 寧に聞いても無駄だと紫雨は判断したのだろう。呼び止めることはせず、そのまま行かせる。

 
 その請求書は紫雨宛てに、香彩が『紅麗』と寧の代理として作成したものだったからだ。
 一度機嫌を損ねると根が深いのは一体誰に似たのか。
 紫雨は今から行うご機嫌取りに、大きく溜息をつきながら、悠然と笑んで見せた。
                                         <終>

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