夢現奇譚シリーズ短編

 残香
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 それは、確かに何も変わらない習慣のようなものだった。 生まれた時から、物心ついた時から、この部屋で共に同じ時を過ごし、寝食を共にしていた。 いつからだろう。 それが『当たり前』ではないのだと、気付いたのは。




 季節は無事、移り変わりを告げたようだった。 体の芯まで入り込むような、きんとした寒さは和らぎ、しんしんと降り続けていた雪は雨へと変わり、積もっていた雪も雪解け水となり、小さな川を作った。 大庭園の少しずつ花をつけ始めていた濃淡溢れる春花は、先日見事に咲き誇り、とても甘い芳香を放っている。
 春、だ。
 香彩(かさい)は大宰私室の格子窓の桟に子供のように寄り掛かりながら、感慨深くそう思った。 辺りはもう既に、夜の帳が下りている。 昼の間は日差しがあるので暖かく思うが、夜にもなると底から湧き出るような冷えがまだ感じられた。 普段なら寒いと思うかもしれない。 だが今宵そう思わないのは、手元にある極上の酒のせいだ。 無論香彩のではない。この部屋の主が隠し持っている値の張る酒の隠し場所くらい、長い付き合いの香彩は見抜いている。
 神澪酒(しんれいしゅ)という。
 麗国の中では、最高級の酒で一番値の張る酒だ。 口に入れた瞬間の冷たさと飲みやすさとは裏腹に、飲み干す喉越しはとても熱く、辛口だ。後味はとてもまろやかで、いつまでも舌で溶けていて、その香りはすっと鼻を通るのだ。
(……昔は、美味しいなんて思ったことなかったけれど)
 今ではその旨みが分かるようになっていた。
 旨みが分かる前までは、散々酒を覚えろと煩かったくせに、いざ覚えると昔の方が可愛かっただの、自分の分が減るだの、さんざん文句を言われている香彩である。
「ほんと……勝手だな」
 そう言いながらも、香彩は懐かしそうに目を細め、くすりと笑う。
 その部屋の主は、多忙な仕事に追われ、帰ってくる時間の遅いことが多かった。そんなとき香彩はよくこんな風に『大宰秘蔵の酒』を無断拝領しながら帰りを待っている。 香彩はずっと紫雨(むらさめ)の私室で暮らしていた。 紫雨が大司徒の時は、大司徒館の私室で。 彼が大宰になった暁には、皇宮母屋内の大宰私室で。 自分の司徒の仕事よりも、遥かに忙しい紫雨を待っていたり、紫雨から出された宿題をしていたり、時には紫雨が持ち帰った仕事の手伝いなんかをして、共に過ごした。
 それがもうすぐ終わる。 誰から何と言われたわけではなかった。 司官には、大宰のお目付けのようなものだから、出て行かないでくれとまで言われた。
 そして、紫雨は……。
「……そうか」 と。 一言。
 その表情からは何を思うのか、伺い知ることはできなかった。
 香彩は数日後に、私室を大司徒館に移そうと考えていた。 紫雨が大宰になった時に、一緒にくっついてきたため、現在大司徒館の大司徒用の私室は空室となっている。香彩はずっとこの大宰私室から通う形で暮らしていた。
 だが、けじめをつけよう、と思ったのだ。 大司徒館私室は、この大宰私室に移る前に暮らしていた場所だ。生まれてから暮らしていたことを考えるとむしろ、そちらの方が長いということもあって、特に不安を感じたりはしていないのだが。
 ただ、その場所に、紫雨がいない。
 まったく会えなくなるわけではない。 仕事場は同じなのだから、大司徒館に移ってからでも、何度も顔を会わすことだろう。だがそれは仕事としての“顔”を……“仮面”を余儀なくされるものなのだ。


 香彩はこの春に晴れて成人の儀を済ませ、大司徒の位を継承し、大司徒の本来の式神である四神、そして城を覆い尽くす程の甚大な護守の力を継承した。それは元々あった香彩の大きな“力”を底上げし、引き上げ、増幅するものだった。 今までの大司徒の中でも類を見ない皓々かつ洗練された強大な“力”に、誰もが賞賛し、彼を大司徒と認めた。
 だが香彩は一度“力”を失くしている。 それがたとえ強大な力を受け入れる為の、体と精神の準備期間のようなものだったとしても、失くしたことに変わりはなかった。そしてそんな香彩を周りは当然認めようとはしなかったのだ。 思えば当然のことである。その“力”があるからこそ、城の護守の力や式神を継承できるのであり、大司徒としての仕事ができるのであって、“力”がない時点で国を支える為の祀りがおろそかになれば、国自体が傾いてしまう。
 香彩は思うのだ。 一度失くしたからこそ、その大切さと、意味を、意義を。 永遠に続くものなんてありはしない。歳とともに失われ、完全になくなってしまわなくても、全盛期に比べるとやはり比べ物にならないくらい、“力”は落ちるのだ。 “力”も必要だが、それ以上に大事なもの。 紫雨はそれを持っている。 だから沢山の大司官や司官が彼に従い、ついていくのだ。
 (―どうすればいいのだろう)
 どうすれば、彼のようになれる?
 どうすれば、いい上司になれる?
 自分に問うてみても、答えは出ない。 理想はあるのに、まるで心の行方も知れず思い描く夢に、はぐれた子供のようだ。
 大きく嘆息して香彩は、空を見上げる。
 月が出ていた。
 薄く雲がかかり、その光はぼやけて見えた。 冷たさの残る微風が、春花の香りを運んでくる。それは香彩の濃淡咲き乱れる花にも似た藤色の髪を揺らした。
 朧月夜に、甘さの強いかぐわしい香り。
 酒の肴にはなんとも言えず、情景だ。
 香彩は杯になみなみと酒を注ぐと、それを口にやろうとした。
 だが。 それを止める手がある。 手首を掴まれていることを自覚したのは、少し経ってから。
「……また、お前は……!」
 その声は腰に響きそうな落ち着きのある低音。だが決して低すぎず、高すぎもしない。とても耳心地の良い音だと香彩は思っている。
 またお前は俺の酒を飲んでいるのかと、彼は言う。だが批難している感じではない。
「飲みすぎだ、香彩。お前俺が部屋に入っていたというのに、気付かなかっただろう」
 そういうと彼は香彩の飲んでいた杯を、香彩の手首ごと掴んで、自分の口にやる。
 そして一気に飲み干した。
「一応これ、ぼくの杯なんですけど」
「安心しろ、お前には今宵はもう一滴もやらん」
 ひどいなぁ、とくすりと笑いながら香彩が言う。
「あなたと飲みたいと思ったんですけど」
 このあまりにも甘く漂う春花の香りと、見事な朧月夜に我慢ができませんでした。
 悪びれもなく、にっこりと笑んで言う香彩に、紫雨は辟易する。
「……笑ってごまかすな」
「あはは、やっぱり紫雨には通用しないか」


  気付けば杯はふたつ。
 なみなみと注がれたそれを手に取り、軽く乾杯し、飲み干す。
「……いつでも来い」
 何も出来んがな、と呟く紫雨は大庭園を見下ろしている。
 その一言で突き放されるわけではないのだと、香彩はひどく安心してしまった。
「毎回酒の隠し場所を変えて、待っていてやる」
 紫雨のそんな言葉に思わず、声を立てて笑ってしまった香彩だ。


 心残りがないかと言われれば嘘になる。
 離れてみて初めて、護られていたことを知った。
 不安に思うこともあるだろう。
 だがそんな時に思い出そうと思うのだ。
 この春花の甘く風に漂う香りの中で飲み交わした、酒のことを。

                                    <終>
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