月が見ていた。
きんと冷える空気に、自身の吐く息が白い。
月の皓さに似ていると、香彩は何気なくそんなことを思う。
楼台の手摺に背中を預けて、香彩は空を見上げていた。
今夜は灯がない。
普段ならば黄昏時が過ぎてから、燈籠に火が燈されるというのに、籠番が忘れたのか、きまぐれな風が吹いたのか、灯は消えていた。
本来ならばこの辺りは真っ暗で、何も見えないだろう。
だが今宵は満月だ。
灯は無くても、その蒼瞑な光は、景色や空気や人でさえも、宵闇と相俟って蒼く染めるかのようだった。
そんな月の光に包まれ、自身の着ている白生地の着衣も染まっていることに気付き、香彩は小さく息をつく。
月を見ていると思い出してしまう人がいた。
なかなか会えない、人だ。
前に会ったのは、いつだっただろう。
思い返すと脳裏に浮かぶのは、夏の太陽のようなはつらつとした笑顔だ。
香彩は不思議に思った。
前向きで明るくて太陽のような人なのに、どうして月を見たら思い出してしまうのか。
「あ……」
不意に思い当ってしまって、淡く笑みがこぼれる。
太陽が出ている時はきっと、思い出しても心が沸き立つ程、揺さぶられることはない。
そう、見えないからこそ、よけいに。
「……絶対に知られないようにしよう」
どういう反応を返されるかは、目に見えている。
かわいいと叫ぶ、空耳が聞こえるようだ。
香彩はゆっくりと手を上げる。
常人では見ることのできない大きな鳥が、重さを感じさせず、香彩の手に止まった。
式だ。
真円の月が昇る夜に便りを、と約束をしたのは、他でもない自分だ。
その時は何故真円なのか、自分でも分からなかった。
(だけど……)
欠けのない月は、今は見えない太陽を思い出してしまうから。
「……絶対に、知られないようにしよう」
本当に何を言われるかわかったものではない。
式が、まだか、といわんばかりに鳴く。
「ああ、ごめん」
香彩は再び息をつく。
「……遥か南、水の国の趙姫へ!」
手を振り上げ、鳥を飛ばす。
鳥はひかりの軌跡を描きながら、南の宵闇へと消えていった。
優しい皓光の下。
軌跡に想いを籠め。
ただ、月だけが、見ていた。
月を、見ていた。
優しくそして毅く淡い光を地上へと照らす、神々しいその真円を。
その皓光は、全てのものに対して、あますことなく平等に届く。
人や、動物や、植物や。
そのひかりを喰らうものたちにさえ。
月は喰らわれても、何も言わない。
食べてもいいんだよと、大きく両手を広げて、やわらかく包み込んでくれているかのように。
優しいひかりが趙飛燕を癒す。
ふわりと、暖かい風が、甘い花の香りを運んでくる。
ここの気候は温暖だ。年中通して気候の差がほとんどない。
暑くもなければ寒くもない気候は、気持ちを陽気にしてくれる。
この国の者はどちらかというと気は長くて、陽気で元気だ。
水の国と謳われている。
水の属性を持つ魔妖の住まう国。彼らは人となんら変わることのない生活を送っている。
違うことといえば、容姿と食生活くらいだろうか。
人と同じ物を食べたりもするが、彼らの何よりの栄養源は月のひかりと。
趙飛燕は大きく息をつく。
(……私達の栄養源は月のひかりと)
縛魔師の持つ、ひかりのきせき。月のひかりによく似た、いのちの源……術力だ。
趙飛燕は趙姫と称される、水の国の魔妖の王の娘だ。
后が人であったが、趙飛燕はどちらかといえば魔妖の属性の方が強かった。
――月が真円を描く晩に、便りを送るよ。
まだ深みのない、けれど優しい声を思い出す。
「……忙しいのかな」
思い出されるのは、その笑顔。
自分より少し年下の、顔も動作もとてもかわいい人。
時々見せる『可愛い』とはまた違う表情に、いつも自分の心は振り回される。
今ですら動揺を隠せないというのに、彼が大人になったらどうなってしまうんだろう。
楽しみな反面、こわいと思う自分がいて。
趙飛燕は小さく溜息をついた。
便りがいつもより遅い。
ただそれだけで不安になる自分を、初めて知った。
彼は……。
縛魔師だ。
しかも、彼の北の国で、一番強い術力の持ち主だ。
優しいその声も、害を成す魔妖ならば、なぎ払う刃へと変わる。
彼の存在を知ってから、月が嫌いになった。
その身体の中に秘めた毅いひかりと、喰らうことに対して優しく包み込んでくれる、そんな彼の本質が月のようだったから。
不安になる。
我慢をしてるんじゃないか。
彼と同じ『人』の方がよかったんじゃないのか。
「――ああ、もう! 私らしくないわ!」
こんなに悩んでいる以上に、彼は多分何も考えていない。
少し便りが遅くなったくらいで、こんなに不安になったり、妙なことを考えてしまったりしている自分が、何だかとても悔しい。
彼は会えばきっと能天気な笑顔を見せてくれる確信があるのに。
「……香彩の馬鹿」
ぽそりと呟く。
こんなに悩んでいることなんて、絶対知られてたまるものか。
「……あ」
北の空から、現れるひかりの軌跡。
趙飛燕の姿を認めたのか、鳥の声でか細く鳴いた。
ゆっくりと手のひらの上に降り立つ。
それは、優しい声で語られる便り。
今日の出来事や、失敗談、甘い囁き。
趙飛燕は再び空を見上げる。
月を見ていた。
それはほんの少し、月が好きになった日……。
<終>