私室でいつもの時間に目が醒める。
早朝のとても澄んだ空気の中に別の気配を感じて、
寝台の向こうで全開の笑顔で手を振っている人物に、香彩は布団をかき集めるようにして体を隠す。
「ちょ……何で顕現してるんですか!?」
寝乱れした寝衣なんて、見せられる相手ではない。
香彩の慌てる様子に、その人物は一瞬きょとんとしていたが、すぐにくすくすと笑い声が漏れ出し、大口を開けて笑い出した。
「も……慌てすぎ……可愛……」
息も切れ切れになりながら、彼女は笑いすぎて出た涙を拭う動作をする。
可愛いと言われて、複雑やら嬉しいやら。
香彩は、身体を隠している布団をぎゅっと握りしめた。
「……布団ごと、抱っこしてもいい?」
「駄目です!」
「じゃあ、頭撫でてもいい?」
「……」
途端に香彩の顔に朱色が走る。
それに対してどう答えたらいいのかわからないまま無言でいると、その無言を是と認識した彼女が、そっと香彩の頭に触れた。
撫でられる手の優しさに、心の中がほっとして温かい気持ちになる。
彼女の手櫛が、香彩の髪をすっと通った。
「髪は私に似たのかな? ほら?」
触ってみてと言う彼女に、香彩はおずおずと手を伸ばした。
宵闇に咲いた春花のような、さらさらとした藤色の髪だった。
とても柔らかくて、とてもいい香りがする。
「うん、私の毛質だね」
にっこりと笑う彼女を見て何だかとても嫌な予感がした。この手の笑みは碌なことがないのだと香彩は経験済みだった。
彼女は香彩の頭を、そっとその胸に抱きしめた。
「――――ちょっ……!」
「しちゃったわよ、抱っこ! 嫌なら力尽くで外したら?」
「……そんなこと、出来るわけ……」
「だったら! 大人しく抱っこされなさい」
居心地の悪さといたたまれなさを感じながら、香彩はとても大きな溜息を付いた。この一度言い出したら聞かない頑固な性質は、確かに自分の中にも流れていて複雑な気分になる。
だが、ひどく安心する心が香彩の中にあった。
抱かれている腕の優しさだとか、頭を撫でて髪を梳く心地良さに、何故か満たされる。
だけど、やはり恥ずかしいことに変わりはなくて、香彩は何度目かと溜息を付く。
「……その仕方がない感じの溜息を付き方とか、腹が立つくらいにそっくりね」
頭の上から降ってくる少し不機嫌そうな声色。
成程、仕方がないなと溜息を付かれるようなことを、昔からあの人の前でやってたわけか。
そう思うと何故か妙に可愛い人に思えてきて、香彩はくすりと笑った。
「そりゃ、そうですよ。あの人の息子でもあるわけですから」
「……あまり可愛くないこと言ってると、このおでこに、ちゅってするわよ!」
「――――ごめんなさい」
「……何よそれ。されるの嫌なわけ?」
不意に顔を覗かれて香彩は固まった。
少し怒った自分とよく似た顔立ちがそこにあった。
気恥ずかしいと共に、自分もよくこうやって人の顔を近い距離で覗くことがあったが、今更ながら相手に申し訳ない気分になる。
「……嫌とかそうのじゃなくて、正直言って恥ずかしいからやめて下さい」
「小さい時は、いっぱいさせてくれたのに」
「小さい時って赤ん坊の時でしょう?」
「うん」
再びにっこりと今度は近距離で笑う彼女に、香彩は盛大に溜息を付いた。
「だめ?」
「……駄目」
いいわよ、隙を見てしてやるんだからと不貞腐れた感じで言う彼女に、やはりどうしても可愛さを感じてしまう。
やはり見た目が同世代だからだろうか。
彼女は十六歳で時が止まっていた。
これからもその身に歳を重ねることはない。
彼女の魂を護り抜いた
彼女は後悔してないのだろうか。
一度彼女の思いを知ったことがある。それでもなお、この中途半端な状況に嘆きはしないのだろうか。
香彩が問おうとしたその時だった。
私室の引き戸が勢い良く開かれたのを、香彩とそして彼女が見た。
「……香彩、いつまで寝て――――」
部屋の中に入ってきた人物を見て、香彩は今朝起きてからもう何度目か分からない溜息を付いた。
そして、鍵をかけておけばよかったと本気でそう思った。
「……あら?」
はぁいと彼女が香彩の頭を抱き締めながら、部屋に入ってきた彼に手を振っている気配がする。
「いい男になるだろうって思ってたけど、やっぱりいい男になったか。ちょっと早まったかな、私。ねぇ? 香彩」
「……お願いだから、僕に聞かないで下さい」
何だかすごく悪いことをしている気がして、いたたまれなくて香彩は彼女の腕を外そうとするが、その細い腕にどこにそんな力があるのか、全く外すことが出来ないでいた。
「何で暴れるのよ。大人しく抱っこされる約束でしょ?」
「してない! してないからそんな約束!」
「もう。融通が効かないんだから。そんなことしてたらどっかの誰かさんみたいになっちゃうわよ」
「……どっかの誰かさんでいいよ、もう」
香彩は視線を彼へと向けた。
彼女の言うどこかの誰かさんは、ほぼ彼のことだ。
彼女も何とか言ってやってと、彼の方へ視線を送る。
「え」
初めて、見た。
声を濡らすわけでもなく、肩を震わせるわけでもなく。
静かな、とても静かな。
流れる一筋の涙。
そんな風に泣く彼を、生まれて初めて目にした。
香彩からそっと離れて、彼女は彼の前に立つ。
彼は膝を折り、崩れるようにして彼女の胸に頭を預けて抱き締めた。
彼女はとても愛おしそうに、彼の頭を撫で、抱き締めている。
そして香彩の方を見てこう言った。
あなた、彼に、説明した?
「――――……あ、その……言いそびれたというか、機会がなかったっていうか……」
「忘れてたのね?」
「……忘れてたっていうか……その……」
「忘れてたんでしょ?」
「――――ごめんなさい」
「そう、素直が一番よね、香彩」
にっこりと彼女が笑う。
そして彼に向き直って、香彩と話す口調よりもとても優しく少し甘やかに、彼に説明し始める。
話を聞く彼もまた、やはりいつもとは違った様子だった。
先日下した
彼女は昔、自分達を助けるために、その式鬼と共に追手と戦った。
『
『河南』の強大かつ甚大な術力は、本来ならば血族の女児のみに宿るものであり、成長と共に元ある術力を底上げする。だが男児は雀の涙ほどの術力しか受け継がないどころか、術力そのものを消滅させてしまう為、男児を産んだ女と通じた男は、罪として『河南』そのものに殺されるという。
今ふたりが在るのは、逃亡中、妻であり母であった彼女が自らを犠牲にして、麗国の城主に助けを求めたためだ。
式鬼達が
香彩が式鬼達を下した後、式鬼達の中に巡った香彩の術力が、彼女を目覚めさせ、術力を媒体にその身体を形成してみせた。
だが気力体力と同じように、術力にも使う限界がある。
彼女の顕現は、かなりの力を消費するため、普段は式鬼達に護られて眠りについている。
彼女の存在を忘れていたわけじゃなかったが、彼にどう切り出せばいいのかわからないまま、いつの間にか時間が過ぎてしまった感じだった。
香彩は再び布団を抱き締めながら、彼と彼女の様子を伺う。
彼は初めは驚いた表情をしていたが、彼女にその涙を拭われて、照れ隠しのように彼女の髪に触れていた。
ほっとしたようなそんな彼の様子に、彼がこの十五年間、どれほど気を張り詰めていたのか、どれほどの喪失を感じていたのかを思い知る。
そして、どんなに姿が似ていても、自分では彼を癒すことは出来ないのだと、思い知らされた気がした。
(……彼らは、そんなことないって言うかもしれないけど)
自分は彼らの罪そのものであり。
彼から彼女を奪った原因そのものだ。
たとえ彼らが違うのだと言ったとしても、事実には変わりないのだから。
「……香彩?」
不意に呼ばれて香彩は笑顔で、彼女の方を見た。
手招きをしているのを見て、香彩は小さく息をついて寝台から降りる。
香彩が近づいてきたのを見計らって、彼女は一度彼から離れる。
そして向きを変えて、ふたりの首に抱き着いた。
「今日、なんだよ。香彩」
「えっ?」
香彩がきょとんとして、彼女を見る。
彼女の言葉に、ああ、と納得したかのように、彼が呟いた。
「今日、だな」
「……えっと?」
香彩の様子に、彼女と彼がくすくすと笑う。
「今日はね、十六歳の私が、あなたを産んだ日。そしてあなたが今日で十六歳になった日」
「――――あ……」
すっかり忘れていた。
今日は。
「……だから……顕現して……」
「そう、貴方たちに言いたいことがあったんだ」
彼女はそっとふたりから離れて、そして香彩を、彼を、順番に見つめた。
そして。
全開の笑顔を浮かべてこう言った。
「私を、『お母さん』にしてくれてありがとう。香彩、紫雨」
手を振る彼女の姿が、薄っすらとなり、やがて消えていった。
香彩と紫雨はしばらくの間、彼女が消えたその場所を静かに見つめていた。
その沈黙を破ったのは、紫雨のくすりとした笑いだった。
「……ここまで、俺に似なくてもいいだろう?」
「えっ」
紫雨の手が香彩の頬に触れる。
拭われて、香彩は初めて自分が泣いていることに気付いたのだ。
恥ずかしさでいっぱいになる香彩が、そっぽを向いた時だった。
「――――っつ!」
ぐらりと世界が回る。
香彩と呼ぶ声が、視界が自分のものではない遠い出来事のように思えてくる。そしてまるで酷い二日酔いのような、後を引く気分の悪さが襲ってくる。
香彩は縋りつくように、紫雨の着衣を掴んだ。
つもりだった。
その手に力が入らない。
体勢を崩す香彩を、かろうじて紫雨が受け止めた。
「……大丈夫か?」
「はは…っ、ほとんど持っていかれたみたい……」
慣れた手つきで紫雨は香彩をすくい上げるようにして、腕の中に収める。
そして寝台にそっと横たえた。
体勢が変わって襲ってくる眩暈に、香彩は苦い顔をして耐え、何とか遣り過ごす。
ごく自然にいつも通り、頭と額にその口唇が落とされた。
(……次会う機会があったら、絶対に黙ってないだろうなぁ)
今でも、もし術力が枯渇していなかったら、ずるいと叫んで出てきそうだ。
頭を撫でられて、髪を手櫛で梳かれる感覚がとても気持ち良くて、香彩は目を閉じる。
どれだけの時間、そうされていたのだろう。
ようやく気持ちの悪さと頭のぐらつきが消えて、香彩はゆっくりと目を開けた。
心配そうで、そして複雑な表情をした紫雨の視線とぶつかる。
紫雨がその表情のまま、香彩に向かって笑んだ。
「今日は休め。香彩」
「……紫雨は今日どっちで、仕事、するの?」
「こっち、だが……?」
「じゃあ、行く」
ゆっくりと起き上がった香彩が、紫雨の手を借りて寝台から降りる。
「こっちだったら、もし駄目だったら休みに来られるし」
「……あまり、無茶をしてくれるな」
「うん。何だか今日はね」
仕事でもいいから、紫雨と一緒にいたかった。
何となく離れ難かった。
こんなに優しい気分になれたのは、久しぶりだったから。
呆れたような、でもどこか嬉しそうな表情を見せる紫雨に、香彩はにっこりと笑って見せた。
その笑みは、まさに彼女の、里愛良の生き写しだった……。
<終>